芸術学概論(1)第8回

講義

芸術学特論(1) 第7回

講義

  • ロラン・バルトと文化記号学
    • 神話学:外示(デノテーション)と共示(コノテーション):もとはルイ・イェルムスレウの考え
      • ロラン・バルト現代社会の神話―1957 (ロラン・バルト著作集 3)
        • 「私は理髪店にいて『パリ・マッチ』誌を一冊、手渡される。その表紙には、フランスの軍服を着た一人の若いニグロが、軍隊式の敬礼をして目を上げているが、おそらくその見つめる先には、三色旗がひるがえっているのだろう。こうしたことが映像の意味である。だが、純粋であろうがなかろうが、わたしにはその映像が私にとって何を意味しているかがよくわかる。すなわち、フランスは偉大な〈帝国〉であること、そのすべての息子らは、肌の色の区別なく、その旗に忠実に仕えるということ、いわゆる抑圧者に仕えるこの黒人の熱意ほど、いわゆる植民地主義を非難する人たちに対する最良の応答はないということ。それゆえ、わたしはここでもまた、価値の高められた記号体系を目の前にしていることになる。すでに、前提となる体系(「フランス軍隊風の敬礼をする黒人兵士」)から、それ自体形成されたシニフィアンがある。それからシニフィエがある(ここではそれは、フランス性と軍隊性の意図的な混合である)。そして最後に、シニフィアンをつうじての、シニフィエの現前がある(バルト前掲書)」。
        • 二重の記号体系:「薔薇」という記号は、「bara」という音(シニフィアン)と「茎に棘があって、複雑な花弁を持つ植物」という概念(シニフィエ)から成り立つが、その「薔薇」という(喋られた/書かれた)記号自体がシニフィアンとなって、たとえば「情熱」というメタ・レヴェルでのシニフィエを指す場合。
      • 同「広告のメッセージ」『記号学の冒険
        • 「アストラで黄金の料理を」という広告の場合:共示が外示を隠蔽する
      • 同「映像の修辞学」『第三の意味―映像と演劇と音楽と』:パンザーニ社の広告の分析
  • 広告という視覚文化
    • 「欲求need」と「欲望desire」のちがい
      • 「欲求は満足することができる。でも欲望は、決して満足しない。そして人間の活動は、そのほとんどがこうした「満たされない欲望」のうえに成立している。僕たちは自分の抱えた欲望を、そのつどちょっとずつ満たしてやることで、最終解決は先送りしながら生きている。〔…〕実はこういう欲望のメカニズムは、「資本主義」システムのそれとよく似ている。いろんな問題解決を常に先送りしながら成立しているこのシステムは、その究極的な解消がありえないことが、システム成立のための重要なよりどころになっている」
      • 「いわゆる資本主義とは、交換過程の偶発的性格(交換の可能性がその場その場の個人的な欲求に依存すること)を克服するために、支払うものの欲求を身体的・生理的な領域から解放し、交換の動機付けとなる欲求〔=欲望?〕を自己創出する動的システムのことなのだ。〔…〕資本システムは広告という意味媒体によって差異を自己生産し、私たちの欲求を創出する」

芸術学概論(1) 第7回

お知らせ

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芸術学特論(1) 第6回

お知らせ

講義

  • 文化と記号
    • 同一の文化に属する者たちは、一連の概念、イメージ、思想——それによって、世界について考えたり感じたりすることができ、したがって世界をおおまかにおなじように解釈することができる——を共有しているはずである。おおまかに言えば、同じ「文化的なコードcode」を共有しているはずである。こうした意味においては、考えることや感じることは、それ自身「表象のシステム」である——そのシステムによって、私たちの精神生活の中で、私たちの持つ概念、イメージ、感情が、「向こうの」世界に存在する、あるいは存在するかもしれないモノを「表すstand for」、あるいは表象するのである。同じように、他人にそれらの意味を伝達 communicateするため、何らかの意味の交換に参加する者は、同じ言語的コードを使えなければならない——広い意味で「同じ言葉を話す」ことができなければならないのである。これは、文字通り、参加者たちが全員、ドイツ語なりフランス語なり中国語なりを話すという意味ではない。また、同じ言葉を話す者の言うことを完璧に理解するという意味でもない。ここでいう「言語」とは、もっと広い意味である。私たちの〔コミュニケーションの〕パートナーは、「あなた」が言うことを「私」が理解していることに翻訳できる——逆もまた同じ——程度に同じ言語を話せればいいのである。また、視覚的なイメージもおおまかに同じ仕方で読めなければならない。どちらもが「音楽」であると認識するものを作るためには、おおまかに同じように音を組み立てる方法を知らなければならない。全員ボディ・ランゲージや表情を、おおまかに同じように解釈しなければならない。そして、自身の感情や考えを、そうしたさまざまな言語に翻訳する方法を知らなければならない。意味とは対話である——つねに部分的にだけ理解され、つねに不均等な交換なのである。
    • ではなぜ、意味を生成し、伝達するさまざまな手段を「言語」や「言語のようにはたらく」と呼ぶのであろうか。どのように言語ははたらくのであろうか。単純な答えをいえば、言語は、表象を通して機能するのである。それらは「表象のシステム」である。本質的に、上記の実践が全て「言語のように機能」するのは、それらが全て書かれたり話されたりするからではなく(〔実際のところ〕違う)、それらが全て同じ要素を、私たちが言いたいこと、考えや概念や感情を表現したり伝達したりしたいことを表したり、表象したりするために使っているからなのである。音声言語は音を使い、書記言語は言葉を使い、音楽的言語は音階上の楽音を使い、「身体の言語」は肉体的なジェスチャーを使い、ファッション産業は衣料品を使い、表情の言語は、人の顔の要素を変える方法を使い、テレビはデジタル的、電子的に作られたスクリーン上のドットを使い、交通信号は、赤、青、黄を使って、「何かを言う」。これらの要素——音、言葉、楽音、ジェスチャー、表情、衣料——は、私たちの〔住む〕自然で物質的な世界の部分である。しかし、それらが言語にとって重要なのは、それらが何であるかではなくて、何をするのか——すなわちそれらの機能——ということである。それらは、意味を構築し、送達する。それらは意味を生成する。それらはそれら自身のうちには、何ら意味を保持していない。そうではなく、それらは象徴symbolとして作用するがゆえに、意味を運ぶ乗り物あるいはメディアなのである。象徴というのも、すなわちそれらは、私たちが伝達したいと思っている意味を表す、あるいは表象する(つまり象徴化する)のである。もう一つの隠喩を使うならば、それらは、記号として機能する。記号は、私たちの概念、考え、感情を、他者が読み、解読〔脱コード化〕し、解釈することができるような仕方で、表す、あるいは表象するのである。

芸術学概論(1)第6回

講義

芸術学特論(1) 第5回


MODS & KAISER CHEIFS LONDON CLOSING CEREMONY 2012

芸術学概論(1) 第5回

芸術学特論(1) 第4回


映画「無能の人」劇場予告


  • さまざまな「カルチャー」
    • ハイ・カルチャー=高級文化
      • ドミナント・カルチャー=ある共同体の主流を占める文化。しばしばハイ・カルチャーと同義だが、対義語はサブカルチャーになる。
    • ロー・カルチャー=低級文化。被支配者層の文化
      • ポピュラー・カルチャー=民衆文化。近代に限らない。
      • マス・カルチャー=大衆文化。多くの人達のために大量に作られる文化。複製技術を前提にする。
      • ポップ・カルチャー=ポピュラー・カルチャーと同義にも用いられることもあるが、つかの間の流行といった意味も持つ。
      • サブカルチャー=主流(ドミナント)ではない、周縁的な文化。
      • コスチューム/ファッション/ストリート・スタイル


A Fred Perry Subculture Films #2: This Is A Modern World


MODS & KAISER CHEIFS LONDON CLOSING CEREMONY 2012

芸術学概論(1) 第4回

講義

芸術学特論(1) 第3回

講義

  • 文化とマナー
  • イメージ/モノ/コトバとコンテクスト
    • 純化して言うなら、文化とは「共有された意味shared meaning」に関わるものである。そもそも言語は、とりあえず「意味を生みだす/理解するmake sense」——すなわち意味が生成produceされ、交換される——ことにおいて特権化された媒体mediumである。
    • 私たちが同一の言語に等しく通じているときにのみ、意味は共有される。したがって、言語こそが意味と文化の中心を占めるものであり、文化的な価値や意味をつねに貯える重要な場所と見なされているのである。
    • 人文科学や社会科学——特にカルチュラル・スタディーズや文化の社会学——において、「文化論的転回cultural turn」と呼ばれるようになってきたものは、文化の定義において意味meaningの重要さを強調する。文化とは、モノthings——小説や絵画、テレビ番組やマンガなど——の集合体であるだけでなく、プロセス、すなわち実践practiceの集合体でもあると論じられる。第一義的に、文化とは、社会や集団の構成員間における意味の生成と交換——すなわち「意味の贈答」——に関するものである。二人の人が同じ文化に属するということは、二人が世界を大まかに同じように解釈していて、彼女/彼ら自身のことや、世界に対する考えや感情を、お互いが理解しあえるような仕方で、表現することができるということである。したがって文化とは、自らの周りに起こることを意味あるように解釈し、おおまかに似たかたちで世界を「理解する=意味を作る〔make sense〕」参加者に依存するものなのである。
    • 文化的な実践を強調することは、重要なことである。ある文化の参加者こそが、人やモノや出来事に意味を与えるのである。モノは「それ自身の中」に、単一の、固定した、不変の意味を具えることは、あったとしてもほとんどない。石のように明白に見えるものでも、それは石であったり、境界のしるしであったり、彫刻であったりするであろう。それは、それが何を意味するのか、すなわち、ある特定の使用のコンテクスト、哲学者がさまざまな「言語ゲーム」(つまり境界線の言語、彫刻の言語など)と呼ぶものに依る。私たちがものを使うこと、私たちがものについて語り、考え、感じること——私たちがものを表象すること——こそが、私たちがものに意味を与えるということなのである。部分的には、私たちはモノ、人、出来事に、私たち自身の解釈の枠組みによって、意味を与える。

デザイン理論特講 第3回

オンライン資料の調べ方

資料調査法--デジタル・アーカイヴとの付き合い方

芸術学概論(1) 第3回

講義

芸術学特論(1) 第2回

イントロダクション

講義:視覚文化論

芸術学概論(1) 第2回

イントロダクション

講義

  • 視覚的(visual)なもののリテラシーとコミュニケーション
    • ヴィジュアル・リテラシー=視覚的読解能力
    • リテラシー(Literacy)=文字を読み書きする能力
      • Letter(文字)、Literature(文学)などと同語源 

https://satow-morihiro.hatenablog.com/


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19年度前期芸術学A視覚文化論デザイン論特講1デザイン理論特講(大学院)/a> 講演、特別講義など

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