芸術学特論(1) 第11回
講義
- 文化と記号
- 同一の文化に属する者たちは、一連の概念、イメージ、思想——それによって、世界について考えたり感じたりすることができ、したがって世界をおおまかにおなじように解釈することができる——を共有しているはずである。おおまかに言えば、同じ「文化的なコードcode」を共有しているはずである。こうした意味においては、考えることや感じることは、それ自身「表象のシステム」である——そのシステムによって、私たちの精神生活の中で、私たちの持つ概念、イメージ、感情が、「向こうの」世界に存在する、あるいは存在するかもしれないモノを「表すstand for」、あるいは表象するのである。同じように、他人にそれらの意味を伝達 communicateするため、何らかの意味の交換に参加する者は、同じ言語的コードを使えなければならない——広い意味で「同じ言葉を話す」ことができなければならないのである。これは、文字通り、参加者たちが全員、ドイツ語なりフランス語なり中国語なりを話すという意味ではない。また、同じ言葉を話す者の言うことを完璧に理解するという意味でもない。ここでいう「言語」とは、もっと広い意味である。私たちの〔コミュニケーションの〕パートナーは、「あなた」が言うことを「私」が理解していることに翻訳できる——逆もまた同じ——程度に同じ言語を話せればいいのである。また、視覚的なイメージもおおまかに同じ仕方で読めなければならない。どちらもが「音楽」であると認識するものを作るためには、おおまかに同じように音を組み立てる方法を知らなければならない。全員ボディ・ランゲージや表情を、おおまかに同じように解釈しなければならない。そして、自身の感情や考えを、そうしたさまざまな言語に翻訳する方法を知らなければならない。意味とは対話である——つねに部分的にだけ理解され、つねに不均等な交換なのである。
- ではなぜ、意味を生成し、伝達するさまざまな手段を「言語」や「言語のようにはたらく」と呼ぶのであろうか。どのように言語ははたらくのであろうか。単純な答えをいえば、言語は、表象を通して機能するのである。それらは「表象のシステム」である。本質的に、上記の実践が全て「言語のように機能」するのは、それらが全て書かれたり話されたりするからではなく(〔実際のところ〕違う)、それらが全て同じ要素を、私たちが言いたいこと、考えや概念や感情を表現したり伝達したりしたいことを表したり、表象したりするために使っているからなのである。音声言語は音を使い、書記言語は言葉を使い、音楽的言語は音階上の楽音を使い、「身体の言語」は肉体的なジェスチャーを使い、ファッション産業は衣料品を使い、表情の言語は、人の顔の要素を変える方法を使い、テレビはデジタル的、電子的に作られたスクリーン上のドットを使い、交通信号は、赤、青、黄を使って、「何かを言う」。これらの要素——音、言葉、楽音、ジェスチャー、表情、衣料——は、私たちの〔住む〕自然で物質的な世界の部分である。しかし、それらが言語にとって重要なのは、それらが何であるかではなくて、何をするのか——すなわちそれらの機能——ということである。それらは、意味を構築し、送達する。それらは意味を生成する。それらはそれら自身のうちには、何ら意味を保持していない。そうではなく、それらは象徴symbolとして作用するがゆえに、意味を運ぶ乗り物あるいはメディアなのである。象徴というのも、すなわちそれらは、私たちが伝達したいと思っている意味を表す、あるいは表象する(つまり象徴化する)のである。もう一つの隠喩を使うならば、それらは、記号として機能する。記号は、私たちの概念、考え、感情を、他者が読み、解読〔脱コード化〕し、解釈することができるような仕方で、表す、あるいは表象するのである。
- スチュアート・ホール編『リプレゼンテーション――文化的表象と意味作用の実践』(Representation: Cultural Representations and Signifying Practices (Culture, Media and Identities series))
- ソシュールと記号学
- ランガージュ/ラング/パロール
- シニフィアン(記号表現=意味するもの)とシニフィエ(記号内容=意味されるもの)
- 言語記号の恣意性
- 恣意的記号と有契的記号の差→シンボル的記号vsアイコン的記号/インデックス的記号
- 世界を分節する記号
- 「差異」と分節
- 参考文献
- フェルディナン・ド・ソシュール『新訳 ソシュール 一般言語学講義』
- 丸山圭三郎『言葉とは何か (ちくま学芸文庫)』
- 丸山圭三郎編『ソシュール小事典』
- 筒井康隆『文学部唯野教授 (岩波現代文庫 文芸 1)』(第7講「記号論」)
- ロラン・バルトと文化記号学
- 神話学:外示(デノテーション)と共示(コノテーション):もとはルイ・イェルムスレウの考え
- ロラン・バルト『現代社会の神話―1957 (ロラン・バルト著作集 3)』
- 「私は理髪店にいて『パリ・マッチ』誌を一冊、手渡される。その表紙には、フランスの軍服を着た一人の若いニグロが、軍隊式の敬礼をして目を上げているが、おそらくその見つめる先には、三色旗がひるがえっているのだろう。こうしたことが映像の意味である。だが、純粋であろうがなかろうが、わたしにはその映像が私にとって何を意味しているかがよくわかる。すなわち、フランスは偉大な〈帝国〉であること、そのすべての息子らは、肌の色の区別なく、その旗に忠実に仕えるということ、いわゆる抑圧者に仕えるこの黒人の熱意ほど、いわゆる植民地主義を非難する人たちに対する最良の応答はないということ。それゆえ、わたしはここでもまた、価値の高められた記号体系を目の前にしていることになる。すでに、前提となる体系(「フランス軍隊風の敬礼をする黒人兵士」)から、それ自体形成されたシニフィアンがある。それからシニフィエがある(ここではそれは、フランス性と軍隊性の意図的な混合である)。そして最後に、シニフィアンをつうじての、シニフィエの現前がある(バルト前掲書)」。
- 二重の記号体系:「薔薇」という記号は、「bara」という音(シニフィアン)と「茎に棘があって、複雑な花弁を持つ植物」という概念(シニフィエ)から成り立つが、その「薔薇」という(喋られた/書かれた)記号自体がシニフィアンとなって、たとえば「情熱」というメタ・レヴェルでのシニフィエを指す場合。
- 同「広告のメッセージ」『記号学の冒険』
- 「アストラで黄金の料理を」という広告の場合:共示が外示を隠蔽する
- 同「映像の修辞学」『第三の意味―映像と演劇と音楽と』:パンザーニ社の広告の分析
- ロラン・バルト『現代社会の神話―1957 (ロラン・バルト著作集 3)』
- 神話学:外示(デノテーション)と共示(コノテーション):もとはルイ・イェルムスレウの考え
写真論2 第2回
講義
- 複製技術とはなにか?
- 複製技術とメディア
- 機械的複製技術(Mechanical Reproduction)
- ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」(1936)
- 複製技術の歴史
- 1839:写真術(ダゲールによるダゲレオタイプ)
- 1841:ネガ=ポジ法(トルボットによるカロタイプ)
- 1877:録音技術(エディソンによるフォノグラフ)
- 1887:ディスク型録音装置(ベルリナーによるグラモフォン)
- 1895:映画(リュミエール兄弟によるシネマトグラフ)
- 1926:トーキー映画(ワーナー・ブラザーズによるヴァイタフォン)
- 参考:記録技術の年表 - Wikipedia(および通信技術の年表 - Wikipediaも)
- 1839:写真術(ダゲールによるダゲレオタイプ)
- 機械的複製技術(Mechanical Reproduction)
- 「録音」という複製技術
- レコードをかけている時のレコード盤とレコード針を電子顕微鏡で1000倍に拡大した写真が話題に - amass
- 1877:シリンダー式録音装置(エディソンによるフォノグラフ)
- 1887:ディスク式録音装置(ベルリナーによるグラモフォン)
- 版画、印刷、写真:プリント・カルチャー
- 複製技術とメディア
- ウィリアム・ヘンリー・フォックス・トルボット
- Henry Fox Talbot - Wikipedia
- The Fox Talbot Museum at Lacock | National Trust
- https://www.metmuseum.org/toah/hd/tlbt/hd_tlbt.htm
- Sun pictures: Henry Fox Talbot and the first photographs · SFMOMA
- フォトジェニック・ドローイングとダイレクト・プロセス
- カロタイプ(紙ネガ)とソルテッド・ペーパー印画
- 写真集『自然の鉛筆 Pencil of Nature』(1844-46)
芸術学概論(1) 第10回
講義
- 絵画と表象システム:幾何学的遠近法
- 遠近法=二次元の画面上で、三次元(空間)を表す「さまざま」な仕方:一つではない
- 近代以前の日本における遠近の表し方=画面内での上下が奥行きとして読まれる
- 岸文和『江戸の遠近法―浮絵の視覚』
- 浮世絵とジャポニスム:遠近法の東西往還
- 中国のおける遠近の表し方=「三遠」
- ルネサンス期における「幾何学的遠近法」
- 「世界に開かれた窓」としての絵画=三次元空間というイリュージョン
- 近代以前の日本における遠近の表し方=画面内での上下が奥行きとして読まれる
- 遠近法とカメラ・オブスキュラ、そして写真の登場
- 西野壮平, Diorama Map:Sohei Nishino Official Website
- 地図→絵図→俯瞰図→鳥瞰図→遠近法図→写真
- http://www.emuseum.jp/
- 平安京都都名所図会データべース
- デジタル展覧会「京の鳥瞰図絵師 吉田初三郎」/京都府ホームページ
- 佐藤守弘「都市をひと目に——地図・写真・鳥瞰図、そしてDiorama Map」(『ユリイカ』2020年6月号)
- 遠近法=二次元の画面上で、三次元(空間)を表す「さまざま」な仕方:一つではない
芸術学特論(1) 第10回
講義
- さまざまな「カルチャー」
- サブカルチャーから「文化」を考える
- サブカルチャーの終焉と文化遺産化
- 「スタイルのスーパーマーケット」
- クール・ブリタニア - Wikipedia
- サブカルチャーの終焉と文化遺産化
- サブカルチャーから「文化」を考える
MODS & KAISER CHEIFS LONDON CLOSING CEREMONY 2012
- 文化と記号
- 同一の文化に属する者たちは、一連の概念、イメージ、思想——それによって、世界について考えたり感じたりすることができ、したがって世界をおおまかにおなじように解釈することができる——を共有しているはずである。おおまかに言えば、同じ「文化的なコードcode」を共有しているはずである。こうした意味においては、考えることや感じることは、それ自身「表象のシステム」である——そのシステムによって、私たちの精神生活の中で、私たちの持つ概念、イメージ、感情が、「向こうの」世界に存在する、あるいは存在するかもしれないモノを「表すstand for」、あるいは表象するのである。同じように、他人にそれらの意味を伝達 communicateするため、何らかの意味の交換に参加する者は、同じ言語的コードを使えなければならない——広い意味で「同じ言葉を話す」ことができなければならないのである。これは、文字通り、参加者たちが全員、ドイツ語なりフランス語なり中国語なりを話すという意味ではない。また、同じ言葉を話す者の言うことを完璧に理解するという意味でもない。ここでいう「言語」とは、もっと広い意味である。私たちの〔コミュニケーションの〕パートナーは、「あなた」が言うことを「私」が理解していることに翻訳できる——逆もまた同じ——程度に同じ言語を話せればいいのである。また、視覚的なイメージもおおまかに同じ仕方で読めなければならない。どちらもが「音楽」であると認識するものを作るためには、おおまかに同じように音を組み立てる方法を知らなければならない。全員ボディ・ランゲージや表情を、おおまかに同じように解釈しなければならない。そして、自身の感情や考えを、そうしたさまざまな言語に翻訳する方法を知らなければならない。意味とは対話である——つねに部分的にだけ理解され、つねに不均等な交換なのである。
- ではなぜ、意味を生成し、伝達するさまざまな手段を「言語」や「言語のようにはたらく」と呼ぶのであろうか。どのように言語ははたらくのであろうか。単純な答えをいえば、言語は、表象を通して機能するのである。それらは「表象のシステム」である。本質的に、上記の実践が全て「言語のように機能」するのは、それらが全て書かれたり話されたりするからではなく(〔実際のところ〕違う)、それらが全て同じ要素を、私たちが言いたいこと、考えや概念や感情を表現したり伝達したりしたいことを表したり、表象したりするために使っているからなのである。音声言語は音を使い、書記言語は言葉を使い、音楽的言語は音階上の楽音を使い、「身体の言語」は肉体的なジェスチャーを使い、ファッション産業は衣料品を使い、表情の言語は、人の顔の要素を変える方法を使い、テレビはデジタル的、電子的に作られたスクリーン上のドットを使い、交通信号は、赤、青、黄を使って、「何かを言う」。これらの要素——音、言葉、楽音、ジェスチャー、表情、衣料——は、私たちの〔住む〕自然で物質的な世界の部分である。しかし、それらが言語にとって重要なのは、それらが何であるかではなくて、何をするのか——すなわちそれらの機能——ということである。それらは、意味を構築し、送達する。それらは意味を生成する。それらはそれら自身のうちには、何ら意味を保持していない。そうではなく、それらは象徴symbolとして作用するがゆえに、意味を運ぶ乗り物あるいはメディアなのである。象徴というのも、すなわちそれらは、私たちが伝達したいと思っている意味を表す、あるいは表象する(つまり象徴化する)のである。もう一つの隠喩を使うならば、それらは、記号として機能する。記号は、私たちの概念、考え、感情を、他者が読み、解読〔脱コード化〕し、解釈することができるような仕方で、表す、あるいは表象するのである。
- スチュアート・ホール編『リプレゼンテーション――文化的表象と意味作用の実践』(Representation: Cultural Representations and Signifying Practices (Culture, Media and Identities series))
- ソシュールと記号学
写真論2 第1回
イントロダクション
- 講師の自己紹介
- 佐藤守弘 専門:視覚文化/メディア研究
- 講義情報
- 講義情報ウェブサイト(ブログ)について
-
- 講義概要:写真論1/2 講義概要 - 佐藤守弘の講義情報
- 講義の目的
- 内容の予定
- 評価について
- 講義概要:写真論1/2 講義概要 - 佐藤守弘の講義情報
講義
- 複製技術とはなにか?
- 複製技術とメディア
- 機械的複製技術(Mechanical Reproduction)
- ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」(1936)
- 複製技術の歴史
- 1839:写真術(ダゲールによるダゲレオタイプ)
- 1841:ネガ=ポジ法(トルボットによるカロタイプ)
- 1877:録音技術(エディソンによるフォノグラフ)
- 1887:ディスク型録音装置(ベルリナーによるグラモフォン)
- 1895:映画(リュミエール兄弟によるシネマトグラフ)
- 1926:トーキー映画(ワーナー・ブラザーズによるヴァイタフォン)
- 参考:記録技術の年表 - Wikipedia(および通信技術の年表 - Wikipediaも)
- 1839:写真術(ダゲールによるダゲレオタイプ)
- 機械的複製技術(Mechanical Reproduction)
- 「録音」という複製技術
- レコードをかけている時のレコード盤とレコード針を電子顕微鏡で1000倍に拡大した写真が話題に - amass
- 1877:シリンダー式録音装置(エディソンによるフォノグラフ)
- 1887:ディスク式録音装置(ベルリナーによるグラモフォン)
- 複製技術とメディア
芸術学概論(1) 第9回
講義
- 補足:マリオの主観ショット
- 初期映画と「驚き」/アトラクション
- エディソンとリュミエール
- エディソンのキネトスコープ(1894〜):Edison Kinetoscope films - YouTube
- リュミエール兄弟の最初のシネマトグラフ 工場の出口(1〜3)』/『リヨンの写真学会参加者の下船』/『赤ん坊の食事』/『水をかけられた撒水夫』/『カード遊び』/『ラ・シオタ駅に到着する列車』/『壁の破壊』(1895):The Lumiere Brothers' - First films (1895) - YouTube
- エディソンとリュミエール
-
- トム・ガニング「驚きの美学――初期映画と軽々しく信じ込む(ことのない)観客」(『「新」映画理論集成〈1〉歴史・人種・ジェンダー (歴史/人種/ジェンダー)』)/「初期映画とその観客、そしてアヴァンギャルド」(『アンチ・スペクタクル-沸騰する映像文化の考古学〈アルケオロジー〉』)
- 「アトラクションの映画」トム・ガニング | 現代美術用語辞典ver.2.0
- リュミエール兄弟『ラ・シオタ駅に到着する列車』:Arrival of a Train at La Ciotat (The Lumière Brothers, 1895) - YouTube
- ロバート・W・ポール『田舎者とシネマトグラフ』(1901):The countryman and the Cinematograph (Robert W. Paul, 1901) - YouTube
- 編集への道
- ジョルジュ・メリエス
- ジョージ・アルバート・スミス(ブライトン派)
- 『トンネルの中でのキス』(1899):1899 early film kiss - 'The Kiss in the Tunnel' | BFI National Archive - YouTube
- 『病気の子猫』(1903):George Albert Smith: Sick Kitten (1903) - YouTube
- 『おばあちゃんの虫眼鏡』(1900):George Albert Smith: Grandma's Reading Glass (1900) - YouTube
- 『望遠鏡を覗いて』(1900):George Albert Smith: As Seen through a Telescope (1900) - YouTube
- 『メアリー・ジェーンの災難』(1903):Mary Jane's Mishap (1903) - YouTube
- トム・ガニング「驚きの美学――初期映画と軽々しく信じ込む(ことのない)観客」(『「新」映画理論集成〈1〉歴史・人種・ジェンダー (歴史/人種/ジェンダー)』)/「初期映画とその観客、そしてアヴァンギャルド」(『アンチ・スペクタクル-沸騰する映像文化の考古学〈アルケオロジー〉』)
芸術学特論(1) 第9回
講義
- さまざまな「カルチャー」
- サブカルチャーから「文化」を考える
- モッド・サブカルチャー
- モッズ - Wikipedia
- 佐藤守弘「消費文化への両義的な対処法――マスメディア時代の「ポップ」再考」(UNPOPULAR POP報告書 – UNPOPULAR POP, 167-170)を参照
- モッド・サブカルチャー
- サブカルチャーから「文化」を考える
A Fred Perry Subculture Films #2: This Is A Modern World
-
-
-
- 映画
- サブカルチャーとブリコラージュ的戦術
- 戦略 Strategy vs. 戦術 Tactics
- ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)』
- ブリコラージュ
- ブリコラージュ的戦術
- ディック・ヘブディジ『サブカルチャー―スタイルの意味するもの』
- パンクの戦術
- 戦略 Strategy vs. 戦術 Tactics
- トライブ的サブカルチャーの終焉と文化遺産化
- 「スタイルのスーパーマーケット」
- クール・ブリタニア - Wikipedia
-
-
担当教員のサブカルチャー関係テクスト
- 連載「巨大な書庫で迷子になって」(全3回) 第3回:ポピュラー・カルチャーとアーカイヴ——期待と困難 文:佐藤守弘(視覚文化研究)|Archives|AMeeT
- EVERYONE HAS THEIR PRICE――シチュアシオニストからパンク/ポストパンクへ 文:佐藤守弘(視覚文化研究)|Column|AMeeT
- パンクの視覚文化 前半 セックス・ピストルズ・プロジェクト 文:佐藤守弘(視覚文化研究)|Column|AMeeT
- パンクの視覚文化 後半 フォトコピー・モンタージュ 文:佐藤守弘(視覚文化研究)|Column|AMeeT
- ルーディたちのスタイルとデザイン——2トーンと視覚文化 前半 UKブラックの系譜 文:佐藤守弘(視覚文化研究)|Column|AMeeT
写真論(1) 第8回
講義
- 写真と痕跡
- 痕跡の系譜
- デスマスク
- デス・マスクの型取りもまた、再現の過程での一種の自動性を示している。この意味では、写真を、光という代理人による事物の型取りと見なすこともできるだろう。(バザン「写真映像の存在論」)
- エルンスト・ベンカアト『永遠の貌』
- Lifecasting Tutorial: How to Make a Mold of Your Face with Alginate - YouTube
- ライフマスク制作体験記 - YouTube
- ライフマスクよ永遠に
- 聖顔布とアケイロポイエートス(人の手に依らないイメージ)
- ここで聖遺物や「記念品」の心理学についても論じるべきかもしれない。それらもまた、ミイラ・コンプレックスに由来する、実在性の譲り渡しの恩恵に浴している。トリノの聖骸布が、聖遺物と写真の統合をなしとげていることだけ、指摘しておこう。(バザン「写真映像の存在論」)
- (参考)聖史上のある人物と接触を持ったとみなされるあらゆる品――その人物の体の一部をはじめとして――が聖遺物と見なされていた〔……〕〔それは〕聖人が生前に持っていた恩寵をそっくり保持していた。(クシシトフ・ポミアン『コレクション―趣味と好奇心の歴史人類学』、吉田城、吉田典子訳、平凡社、1992)
- マンディリオン/聖ヴェロニカの伝説
- インデックス性に由来する〈真正〉なる肖像
- 水野千依『キリストの顔: イメージ人類学序説 (筑摩選書)』
- ここで聖遺物や「記念品」の心理学についても論じるべきかもしれない。それらもまた、ミイラ・コンプレックスに由来する、実在性の譲り渡しの恩恵に浴している。トリノの聖骸布が、聖遺物と写真の統合をなしとげていることだけ、指摘しておこう。(バザン「写真映像の存在論」)
- 歌舞伎の押隈/宮武外骨の「無機械写真法」
- ネット時代の聖像:「神の慈しみ」
- デスマスク
- 痕跡の系譜
芸術学概論 (1) 第8回
講義
- 映画における編集
- 感情移入と没入
- 動物に感情移入:セルゲイ・エイゼンシュテイン(監督)『全線:古きものと新しきもの』
- 無生物に感情移入スパイク・ジョーンズ(監督)『ランプ』(イケア社のCM、2003)
- 没入を阻害するカメラ(笑):メル・ブルックス監督・主演『新サイコ』
- (参考)落語の「上下」:桂米朝「鴻池の犬」
- 映画と「モンタージュ」=編集
- ディープ・フォーカス=空間的モンタージュ
- 長回し
- 感情移入と没入
芸術学特論(1) 第8回
講義
- さまざまな「カルチャー」
- サブカルチャーから「文化」を考える
- サブカルチャー=主流(ドミナント)ではない、周縁的な文化。
- サブカルチャーとは - コトバンク
- サブカルチャー - Wikipedia
- サブカルチャーから「文化」を考える
-
-
- 衣装の諸機能
- 様式とは何か - 9bit
- 実用的機能
- 美的機能
- 象徴的/記号的機能
- 衣装の諸機能
-
-
-
- コスチューム/ファッション/ストリート・スタイル
-
A Fred Perry Subculture Films #2: This Is A Modern World
-
-
- サブカルチャーとブリコラージュ的戦術
- 戦略 Strategy vs. 戦術 Tactics
- ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)』
- ブリコラージュ
- ブリコラージュ的戦術
- ディック・ヘブディジ『サブカルチャー―スタイルの意味するもの』
- 戦略 Strategy vs. 戦術 Tactics
- サブカルチャーとブリコラージュ的戦術
-
英書講読 第7回
講読
写真論1 第7回
講義
- 写真と痕跡
- ロラン・バルト「それは=かつて=あった」
- 「写真」が数かぎりなく再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである。〔……〕写真は、「ほら、これです、このとおりです!」と言うだけで、ほかのことは何も言わない。写真は哲学的に変換する(言葉にする)ことはできない。〔……〕「写真」は何か目の前にあるものを指さすのであって、そうした純粋に指呼的な言語活動の域を脱することができない。(10)
- 私が《写真の指向対象》と呼ぶものは、ある映像またはある記号によって指し示されるものであるが、それは現実のものであってもなくてもよいというわけではなく、必ず現実のものでなければならない。それはカメラの前に置かれていたものであって、これがなければ写真は存在しないであろう。〔……〕絵画や言説における模倣とちがって、「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。〔……〕それゆえ、「写真」のノエマ〔現象学的な本質〕の名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」である。〔……〕それはかつてそこにあった、がしかし、ただちに引き離されてしまった。それは絶対に、異論の余地なく現前していた。がしかし、すでによそに移され相異している。
- 写真とは文字どおり指向対象から発出〔émaner/emanate〕したものである。そこに存在した現実の物体から、放射物が発せられ、それがいまここにいる私に触れにやって来るのだ。〔……〕私は、かつて存在したものがその直接的な放射物(その光)によって実際に触れた写真の表面に、こんどは私の視線が触れにいくのだと考えるとひどく嬉しくなる(あるいは暗い気持ちになる)〔……〕(ロラン・バルト『明るい部屋―写真についての覚書』)
- 痕跡の系譜
- 素描/絵画(塑像)の起源神話
- 痕跡と影絵(シルエット)
- デスマスク
- デス・マスクの型取りもまた、再現の過程での一種の自動性を示している。この意味では、写真を、光という代理人による事物の型取りと見なすこともできるだろう。(バザン「写真映像の存在論」)
- エルンスト・ベンカアト『永遠の貌』
- Lifecasting Tutorial: How to Make a Mold of Your Face with Alginate - YouTube
- ライフマスク制作体験記 - YouTube
- ライフマスクよ永遠に
- 歌舞伎の押隈/宮武外骨の「無機械写真法」
- ネット時代の聖像:「神の慈しみ」
- ロラン・バルト「それは=かつて=あった」
芸術学概論(1) 第7回
講義
- マンガのヴィジュアル・リテラシーPt. 3
- 映画における編集
- ショットとは?
- ショット/リヴァース・ショット(切り返し)
- 180度の法則=イマジナリー・ライン
- 主観ショットと客観ショット
- 視線のリレー=窃視の欲望
- 対象←(カメラ)←主人公←【観客】:同一化
- 参考:ローラ・マルヴィ「視覚的快楽と物語映画」(『「新」映画理論集成〈1〉歴史・人種・ジェンダー (歴史/人種/ジェンダー)』)
- いいなCM サントリー 金麦 檀れい集 vol.1 - YouTube
- 山崎賢人のスーツ姿!ランチパックCM「Anywhere オフィス」篇 - YouTube
- 対象←(カメラ)←主人公←【観客】:同一化
- 視線のリレー=窃視の欲望
- 感情移入と没入