予定
- 導入部:先週の補足
映画における編集- 「言語論的転回」以降のさまざまな批評理論が概観できる文献の紹介
- 筒井康隆『文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)』
- 大橋洋一『新文学入門―T・イーグルトン『文学とは何か』を読む (岩波セミナーブックス)』
- テリー・イーグルトン『新版 文学とは何か―現代批評理論への招待』
- 興味ある人は1,2,3の順番に読んでいくといいのでは。
- 講義
- 配付資料「記号学と記号論」は、こちらからダウンロードできます。
講義後の補足
- またしても音声系のケーブルの問題(どうやらケーブルに入っている抵抗が問題らしい)で、「映画における編集」の話ができませんでした。来週はうまくいくといいな。
- 記号の「無徴/有徴性」についての説明をここにも載せておきます。
- 二項対立の場合、第一項は無徴であり、規範的存在である。第二項は、有徴であり、すなわち「他者」である。家父長制的ジェンダー構成においては、男性は、支配的であり、規範的存在であるが故に無徴であり、女性は被支配的であり、他者であるがゆえに、有徴である。
質問など
- ジェンダーの問題についての質問/コメントが多かったです。ジェンダーとイメージの問題については、前期の終わり頃に扱う「美術とジェンダー」という項目で、しっかりと説明したいと思います。また、現在、情報館前にある五月祭の看板の問題(性差別か否か)についても、そのときに論点を整理してみたいと思います。
- 私が「外国人」と「外人」という言葉を使い分けていたことについて質問がありました。そこにも書いてあったとおり、「外人」という言葉は比較的差別的なコノテーションを含み、「外国人」というのは、それに比べたら中立的であるというのが一般的な見解です。私が「外人」という言葉をあえて使ったのは、記号の有徴/無徴という問題のときに、たとえば日本で、髪の毛の色が金色で目が青い人は、「ガイジン」という有徴的カテゴリーに入れられるという例としてであって、括弧付きで使ったつもりです。もう少し説明すべきでしたね。じゃあ、「外国人」として言い換えることに問題はないかというとそれはそれで問題含みで「日本人/外国人」という枠組み自体をも問い直さないといけないとは思います。
- ソシュールとデカルトの思想の関係について質問がありました。むつかしい問題ですね。ただ、ソシュールの言語学は、デカルトを代表とする近代的な主体の哲学を根底からひっくり返す原動力の一つであったと評価されています。そのことについてはまた触れます。
- 「なぜニューヨークには黒人〔アフリカ系アメリカ人〕が多いんですか」という質問がありましたが、これは歴史と関係があって、奴隷解放後、安価な労働力としてアフリカ系人口が大量に南の農業地帯から北の工業地帯に移動したというのが、歴史的な経緯です。ただ、ニューヨークは港町という経緯もあって、さまざまな移民(イタリア系、アイルランド系、ユダヤ系、さらにラティーノやアジア人まで)がもともと多いところで、人口のほとんどがアフリカ系であるワシントンDCなどに比べると、決してアフリカ系アメリカ人が多いわけではありません。
- 「ものまね芸人も表象ですか」という質問がありましたが、まさにその通りです。このことは、以前クラスで少し話したかとは思いますが、とくに「表象」であることを前面に出すことが重要なものです(対して物語映画などにおいては、「表象」であることをできるだけ気付かせないようにし、見る側も気付かないふりをすることが肝要です)。
- 授業自体とは関係ない話ですが、LOMOに関する話題を書いてきていたM君へ。手に入れたそうで、おめでとう。ああいうカメラを使ってみることは、カメラ/写真というものの構造を知る上で役立つと思います。デジカメとかとの差異を意識しながら使ってみると面白いと思います。