第3回

講義

  • 「意味の共有」としての文化
    • 意味作用とコンテクスト
      • 文化とは、ある集団、共同体、社会によって共有される実践であり、視覚的、聴覚的、テクスト的な表象の世界を通じて、意味が生成されるプロセスのことである。ここで、私たちが多くを負っているのは、イギリスの文化理論家スチュワート・ホールによる研究である。彼によれば、文化とは、単なるモノ(例えばテレビ・ショー、絵画など)の集合ではなく、プロセスや実践――それを通じて個人や集団が上記のモノから意味を汲み取る――の集合である。文化は、生産であり、意味の交換――ある社会や集団の構成員間で意味を与え、受け取ること――でもある。ホールによれば、「ある文化の参加者こそが、人、モノ、出来事に意味を与えるものである。……私たちのモノの使い方、モノに関して私たちが言うこと、考えること、感じること――すなわちモノをどのように表象するかということ――こそが、私たちがモノに意味を与えるということなのである」(L. Cartwright & M. Sturken, Practices of Looking: An Introduction to Visual Culture)。
      • 文化的な実践を強調することは、重要なことである。ある文化の参加者こそが、人やモノや出来事に意味を与えるのである。モノは「それ自身の中」に、単一の、固定した、不変の意味を具えることは、あったとしてもほとんどない。石のように明白に見えるものでも、それは石であったり、境界のしるしであったり、彫刻であったりするであろう。それは、それが何を意味するのか、すなわち、ある特定の使用のコンテクスト、哲学者がさまざまな「言語ゲーム」(つまり境界線の言語、彫刻の言語など)と呼ぶものに依る。私たちがものを使うこと、私たちがものについて語り、考え、感じること――私たちがものを表象すること――こそが、私たちがものに意味を与えるということなのである。部分的には、私たちはモノ、人、出来事に、私たち自身の解釈の枠組みによって、意味を与える。部分的には、私たちがものを使う仕方、私たち自身の日常生活の実践の中にそれらを取り込む仕方によって、意味を与える。私たちが大量のレンガ、モルタルを使うことによって「家」ができる。そして、それについて私たちが感じ、考え、語ることによって「家」は「家庭」となるのである。部分的には、私たちがものをどのように表象するかによって、ものに意味を与える――使う言葉、語る物語、作るイメージ、引き出される情動、それらを分類し、概念化する仕方、それらに与える価値によって。次のように言うこともできるであろう。文化とは、それら全ての実践に含まれるものであり、私たちの中に単に遺伝子的にプログラムされている――膝を叩いた時に筋肉が痙攣すること〔膝蓋腱反射〕のような――ものではなく、意味や価値――他者に意味あるものとして解釈され、効果的にはたらくためには、意味に依拠しなければならない――を私たちに伝えるものである。こうした意味では、文化は、社会全体に浸透しているのである。これが、社会生活における「人間的」な要素と、単純に生理的に起動するものとを分かつ点である。それ〔文化〕を研究することとは、社会生活のまさに中心に位置する象徴的な領域の果たす役割を強調することである(S・ホール編『リプレゼンテーション――文化的表象と意味作用の実践』)。

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