講義
- 文化と記号
- 同一の文化に属する者たちは、一連の概念、イメージ、思想——それによって、世界について考えたり感じたりすることができ、したがって世界をおおまかにおなじように解釈することができる——を共有しているはずである。おおまかに言えば、同じ「文化的なコードcode」を共有しているはずである。こうした意味においては、考えることや感じることは、それ自身「表象のシステム」である——そのシステムによって、私たちの精神生活の中で、私たちの持つ概念、イメージ、感情が、「向こうの」世界に存在する、あるいは存在するかもしれないモノを「表すstand for」、あるいは表象するのである。同じように、他人にそれらの意味を伝達 communicateするため、何らかの意味の交換に参加する者は、同じ言語的コードを使えなければならない——広い意味で「同じ言葉を話す」ことができなければならないのである。これは、文字通り、参加者たちが全員、ドイツ語なりフランス語なり中国語なりを話すという意味ではない。また、同じ言葉を話す者の言うことを完璧に理解するという意味でもない。ここでいう「言語」とは、もっと広い意味である。私たちの〔コミュニケーションの〕パートナーは、「あなた」が言うことを「私」が理解していることに翻訳できる——逆もまた同じ——程度に同じ言語を話せればいいのである。また、視覚的なイメージもおおまかに同じ仕方で読めなければならない。どちらもが「音楽」であると認識するものを作るためには、おおまかに同じように音を組み立てる方法を知らなければならない。全員ボディ・ランゲージや表情を、おおまかに同じように解釈しなければならない。そして、自身の感情や考えを、そうしたさまざまな言語に翻訳する方法を知らなければならない。意味とは対話である——つねに部分的にだけ理解され、つねに不均等な交換なのである。
- ではなぜ、意味を生成し、伝達するさまざまな手段を「言語」や「言語のようにはたらく」と呼ぶのであろうか。どのように言語ははたらくのであろうか。単純な答えをいえば、言語は、表象を通して機能するのである。それらは「表象のシステム」である。本質的に、上記の実践が全て「言語のように機能」するのは、それらが全て書かれたり話されたりするからではなく(〔実際のところ〕違う)、それらが全て同じ要素を、私たちが言いたいこと、考えや概念や感情を表現したり伝達したりしたいことを表したり、表象したりするために使っているからなのである。音声言語は音を使い、書記言語は言葉を使い、音楽的言語は音階上の楽音を使い、「身体の言語」は肉体的なジェスチャーを使い、ファッション産業は衣料品を使い、表情の言語は、人の顔の要素を変える方法を使い、テレビはデジタル的、電子的に作られたスクリーン上のドットを使い、交通信号は、赤、青、黄を使って、「何かを言う」。これらの要素——音、言葉、楽音、ジェスチャー、表情、衣料——は、私たちの〔住む〕自然で物質的な世界の部分である。しかし、それらが言語にとって重要なのは、それらが何であるかではなくて、何をするのか——すなわちそれらの機能——ということである。それらは、意味を構築し、送達する。それらは意味を生成する。それらはそれら自身のうちには、何ら意味を保持していない。そうではなく、それらは象徴symbolとして作用するがゆえに、意味を運ぶ乗り物あるいはメディアなのである。象徴というのも、すなわちそれらは、私たちが伝達したいと思っている意味を表す、あるいは表象する(つまり象徴化する)のである。もう一つの隠喩を使うならば、それらは、記号として機能する。記号は、私たちの概念、考え、感情を、他者が読み、解読〔脱コード化〕し、解釈することができるような仕方で、表す、あるいは表象するのである。
- スチュアート・ホール編『リプレゼンテーション――文化的表象と意味作用の実践』(Representation: Cultural Representations and Signifying Practices (Culture, Media and Identities series))
- ソシュールと記号学
- ランガージュ/ラング/パロール
- シニフィアン(記号表現=意味するもの)とシニフィエ(記号内容=意味されるもの)
- 言語記号の恣意性
- 恣意的記号と有契的記号の差→シンボル的記号vsアイコン的記号/インデックス的記号
- 世界を分節する記号
- 「差異」と分節
- 参考文献
- フェルディナン・ド・ソシュール『新訳 ソシュール 一般言語学講義』
- 丸山圭三郎『言葉とは何か (ちくま学芸文庫)』
- 丸山圭三郎編『ソシュール小事典』
- 筒井康隆『文学部唯野教授 (岩波現代文庫 文芸 1)』(第7講「記号論」)
- ロラン・バルトと文化記号学
- 神話学:外示(デノテーション)と共示(コノテーション):もとはルイ・イェルムスレウの考え
- ロラン・バルト『現代社会の神話―1957 (ロラン・バルト著作集 3)』
- 「私は理髪店にいて『パリ・マッチ』誌を一冊、手渡される。その表紙には、フランスの軍服を着た一人の若いニグロが、軍隊式の敬礼をして目を上げているが、おそらくその見つめる先には、三色旗がひるがえっているのだろう。こうしたことが映像の意味である。だが、純粋であろうがなかろうが、わたしにはその映像が私にとって何を意味しているかがよくわかる。すなわち、フランスは偉大な〈帝国〉であること、そのすべての息子らは、肌の色の区別なく、その旗に忠実に仕えるということ、いわゆる抑圧者に仕えるこの黒人の熱意ほど、いわゆる植民地主義を非難する人たちに対する最良の応答はないということ。それゆえ、わたしはここでもまた、価値の高められた記号体系を目の前にしていることになる。すでに、前提となる体系(「フランス軍隊風の敬礼をする黒人兵士」)から、それ自体形成されたシニフィアンがある。それからシニフィエがある(ここではそれは、フランス性と軍隊性の意図的な混合である)。そして最後に、シニフィアンをつうじての、シニフィエの現前がある(バルト前掲書)」。
- 二重の記号体系:「薔薇」という記号は、「bara」という音(シニフィアン)と「茎に棘があって、複雑な花弁を持つ植物」という概念(シニフィエ)から成り立つが、その「薔薇」という(喋られた/書かれた)記号自体がシニフィアンとなって、たとえば「情熱」というメタ・レヴェルでのシニフィエを指す場合。
- 同「広告のメッセージ」『記号学の冒険』
- 「アストラで黄金の料理を」という広告の場合:共示が外示を隠蔽する
- 同「映像の修辞学」『第三の意味―映像と演劇と音楽と』:パンザーニ社の広告の分析
- ロラン・バルト『現代社会の神話―1957 (ロラン・バルト著作集 3)』
- 神話学:外示(デノテーション)と共示(コノテーション):もとはルイ・イェルムスレウの考え