昨日のフォローアップ
触覚
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- アフォーダンス:現代美術用語辞典|美術館・アート情報 artscape
- 展覧会情報 | vol.01 石黒宗麿陶片集 | ABCコレクション・データベース
- 接触/距離と文化:ユニバーサル・ミュージアム ―― さわる!“触”の大博覧会 – 国立民族学博物館
- ユニバーサル・ミュージアム ― さわる!“触”の大博覧会 | 国立民族学博物館 | 美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ
- 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、「濃厚接触」という言葉を頻繁に耳にするようになった。ウイルスの感染を防ぐために、濃厚接触を避ける。単純にとらえるなら、一連の肺炎騒ぎは、さわる文化の危機ということができる。しかし、そもそも接触とは何だろうか。かつて人間は「距離」を縮めるために、身体を駆使して対象物に肉薄した。中世・近世に各地を遍歴した琵琶法師の芸能を想起するまでもなく、テレビやラジオがない時代、人々の生活は濃厚接触で成り立っていたともいえる。濃厚接触で人・物に触れる際、そこには暗黙のマナー、触れ合いの作法があった。近代化の「可視化=進歩」の過程で、人類は濃厚接触のマナーを忘却してしまった。
- 近年の拙著では、曖昧な「健常者」に代わって、「見常者」(視覚に依拠して生活する人)という語を使っている。僕が見常者でないのは明らかである。そして、現代社会を構成する大多数の人が見常者であるのも間違いない。では、琵琶法師や瞽女が活躍した中・近世はどうだろう。平曲や瞽女唄に耳を傾けていた民衆は目の見える人々であるが、見常者というわけではない。彼らは見ることに偏らず、さわること、聴くことの楽しさ、奥深さも心得ていた。
- 人類が過度に視覚に依存するようになるのは近代以降である。現代社会においては、「健常者→見常者」「視覚障害者→触常者」の置き換えは可能だが、時代を遡れば目が見える触常者も多数存在していた。また、「目に見えない世界」が尊重されていた社会では、盲人(視覚を使わない人)は障害者(視覚を使えない人)ではなかったともいえるだろう。目の見える触常者が増えれば、「障害者/健常者」という二分法に基づく近代的な人間観は改変を迫られる。『触常者として生きる』が読者の毛穴に眠る触角をくすぐり、社会の多数派が保持する「健常者幻想」を打ち破ることを期待したい。
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- 近代ヨーロッパにおける視覚中心主義と触覚文化
- コロナ・ピューリタニズムの懸念|斎藤環(精神科医)
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絵画のヴィジュアル・リテラシー
- イメージを「読む」
- 物語とイメージ:『伊勢物語』と「八つ橋」
- 尾形光琳の3つの八つ橋/かきつばた
- C0001845 伊勢物語図 - 東京国立博物館 画像検索
- Ogata Kōrin | Irises at Yatsuhashi (Eight Bridges) | Japan | Edo period (1615–1868) | The Metropolitan Museum of Art
- 燕子花図|根津美術館
- 昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、「京にはあらじ、東の方に住むべき国求めに」とて行きけり。もとより友とする人、一人二人して行きけり。道知れる人もなくて、惑ひ行きけり。
- 三河の国八橋といふ所に至りぬ。そこを八橋と言ひけるは、水ゆく川の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋と言ひける。その沢のほとりの木の陰に下り居て、乾飯食ひけり。その沢にかきつばた いとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばた、といふ五文字を上の句に据ゑて、旅の心を詠め」と言ひければ、詠める。
- 唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ(各句の頭の字をとれば「か・き・つ・ば・た」)
- と詠めりければ、みな人、乾飯の上に涙落としてほとびにけり。
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- 『伊勢物語』第9段
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- 尾形光琳の3つの八つ橋/かきつばた
- 物語とイメージ:『伊勢物語』と「八つ橋」
文化とはなにか
- 「着る」ことから文化を考える
- 菊地暁『民俗学入門 - 岩波書店』第一章「暮らしのアナトミー「きる【衣】」から
- 文化概念の変容
- 古典的定義=「教養」としての文化
- 人類学的定義=「生活の仕方の全体」
- 「意味の共有」としての文化=文化論的転回
- レイモンド・ウィリアムズ『完訳 キーワード辞典』
- 柳父章『文化 (一語の辞典)』
- 西川長夫「文化と文明ーーその起源と変容」(『〔増補〕国境の越え方 (平凡社ライブラリー)』)
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- 単純化して言うなら、文化とは「共有された意味shared meaning」に関わるものである。そもそも言語は、とりあえず「意味を生みだす/理解するmake sense」——すなわち意味が生成produceされ、交換される——ことにおいて特権化された媒体mediumである。
- 私たちが同一の言語に等しく通じているときにのみ、意味は共有される。したがって、言語こそが意味と文化の中心を占めるものであり、文化的な価値や意味をつねに貯える重要な場所と見なされているのである。
- 人文科学や社会科学——特にカルチュラル・スタディーズや文化の社会学——において、「文化論的転回cultural turn」と呼ばれるようになってきたものは、文化の定義において意味meaningの重要さを強調する。文化とは、モノthings——小説や絵画、テレビ番組やマンガなど——の集合体であるだけでなく、プロセス、すなわち実践practiceの集合体でもあると論じられる。第一義的に、文化とは、社会や集団の構成員間における意味の生成と交換——すなわち「意味の贈答」——に関するものである。二人の人が同じ文化に属するということは、二人が世界を大まかに同じように解釈していて、彼女/彼ら自身のことや、世界に対する考えや感情を、お互いが理解しあえるような仕方で、表現することができるということである。したがって文化とは、自らの周りに起こることを意味あるように解釈し、おおまかに似たかたちで世界を「理解する=意味を作る〔make sense〕」参加者に依存するものなのである。
- 文化的な実践を強調することは、重要なことである。ある文化の参加者こそが、人やモノや出来事に意味を与えるのである。モノは「それ自身の中」に、単一の、固定した、不変の意味を具えることは、あったとしてもほとんどない。石のように明白に見えるものでも、それは石であったり、境界のしるしであったり、彫刻であったりするであろう。それは、それが何を意味するのか、すなわち、ある特定の使用のコンテクスト、哲学者がさまざまな「言語ゲーム」(つまり境界線の言語、彫刻の言語など)と呼ぶものに依る。私たちがものを使うこと、私たちがものについて語り、考え、感じること——私たちがものを表象すること——こそが、私たちがものに意味を与えるということなのである。部分的には、私たちはモノ、人、出来事に、私たち自身の解釈の枠組みによって、意味を与える。
- スチュアート・ホール編『リプレゼンテーション――文化的表象と意味作用の実践』(Stuart Hall, ed., Representation: Cultural Representations and Signifying Practices, London: Sage/ Open University, 1997) (Representation: Cultural Representations and Signifying Practices (Culture, Media and Identities series))
サブカルチャーとポップカルチャー
- さまざまな「カルチャー」
- ハイ・カルチャー=高級文化、社会的エリート(王侯貴族、宗教的権威、ブルジョワ、知識人など)の文化。
- ポピュラー・カルチャー=民衆文化。近代に限らない被支配層の文化。以下の諸文化の上位概念。
- フォーク・カルチャー=民俗文化。おおく産業化以前の社会における伝統的文化について用いられるが、最近はヴァナキュラー・カルチャーに近い意味で用いられることも多い。
- ヴァナキュラー・カルチャー=多くは無名の作者による制作物からなり、市場で取引されることの少ない、ある土地独特の文化を指す。
- マス・カルチャー=大衆文化。多くの人達のために大量に作られる文化。複製技術を前提にする。
- ポップ・カルチャー=ポピュラー・カルチャーと同義にも用いられることもあるが、つかの間の流行といった意味も持つ。マス・カルチャーの享楽的な部分?
- サブカルチャー=主流(ドミナント)ではない、少数者による周縁的な文化。
- 「サブカル」=90年代の日本で、「オタク」系ではないお洒落なサブカルチャーに対して用いられはじめた言葉(入門「オタク」と「サブカル」はどう違うのか? 90年代の源流をたどる | アーバン ライフ メトロ)
- カウンター・カルチャー=サブカルチャーのうち、主流文化に対する対抗的/反抗的な性格が強いもの
- アンダーグラウンド・カルチャー=→「アングラ」:「地下」→「非合法」→主流ではない批判的・実験的な文化
- オルタナティヴ・カルチャー=これまでとは違う文化。「カウンター」、「アンダーグラウンド」の代わりに用いられるようになった
- 「「ポピュラー・カルチャー」という語は、日本語で言う「民衆文化」とほぼ同義であり、本稿ではハイ・カルチャー、エリートの文化ではない、フォーク・カルチャー、マス・カルチャー、カウンター・カルチャー、そしてポップ・カルチャーを含む上位概念として使用していく。「マス・カルチャー」は、すなわち「大衆文化」で、大量生産され、大衆によって大量消費される文化のこと。これは明らかに近代以降の歴史的存在であり、時にはハイ・カルチャーをも取り込むこともある。「サブカルチャー」は、社会における主流のドミナントな文化に副次的に存在する文化のことで、それは、年齢、ジェンダー/セクシュアリティ、エスニシティ、階級、さらには趣味や嗜好による独自性を持った諸集団——「大衆」という画一的枠組みにはまらない——によって担われるものとする」。(佐藤守弘「消費文化への両義的な対処法──マスメディア時代の「ポップ」再考、UNPOPULAR POP報告書 – UNPOPULAR POP、pp.160-184)」
- 「そもそも、同じポピュラー・カルチャーに分類されてはいても、フォーク・カルチャー(民俗文化)と近代的なマス・カルチャー(ひいてはポップ・カルチャー)は、定義上、相容れないものと考えられていた。本来は小さなコミュニティで共有されていたフォーク・カルチャーは、近代の都市におけるメディアの変容によって登場するマス・カルチャーに征服されてしまい、真正な文化財と して保存されるしかない運命を辿ったとされる。ちなみに「定義上」と書いたのは、その考えがクレメント・グリーンバーグなどが考えたように古いものであり、たとえば現代の民俗学の最前線 ──菊地暁『民俗学入門』(岩波新書、二〇二二)に見られるような──では、フォーク・カルチャーを必ずしもそのように捉えているとは限らないからである」(佐藤守弘「民謡クルセイダーズ——矛盾の肯定」同上、p.124)
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- サブカルチャーから「文化」を考える
- イギリスのユース・サブカルチャーズ:50年代のテディ・ボーイズ
- ディック・ヘブディジ『サブカルチャー: スタイルの意味するもの』
- ジョン・サヴェージ『イギリス「族」物語』
- Ted Polhemus, Street Style
- モッド・サブカルチャー
- サブカルチャーとブリコラージュ的戦術
- 戦略 Strategy vs. 戦術 Tactics
- ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)』
- ブリコラージュ
- ブリコラージュ的戦術
- ディック・ヘブディジ『サブカルチャー: スタイルの意味するもの』
- 戦略 Strategy vs. 戦術 Tactics
- イギリスのユース・サブカルチャーズ:50年代のテディ・ボーイズ
- サブカルチャーから「文化」を考える