芸術学特論2 第15回
お知らせ
- 企画展「郡中小学校」|番組小学校だけじゃない!京都市における「もう一つの小学校150年の歴史」をご紹介します |京都市学校歴史博物館
- 座談会「写真から探る学校校舎の歴史的価値――歴史を紡ぐスクールフォトをいかに読み解くか――」
- 2月19日(日)14:00-15:30
- 佐藤守弘(同志社大学文学部教授)/植田憲司 (京都経済短期大学経営情報学科専任講師)/林潤平(京都市学校歴史博物館学芸員)
- 座談会「写真から探る学校校舎の歴史的価値――歴史を紡ぐスクールフォトをいかに読み解くか――」
講義
- 遺影写真:痕跡と記憶
- 遺影写真の三条件
- 肖像であること→イメージの再現的機能
- 像主が既に死去していること→指示対象の不在
- 観者が像主に愛情、尊敬などの感情を抱いていることを表明していること→肖像の〈遺影化〉の儀礼
- 明治天皇の肖像写真=「御真影」
- 写真の「物神化」(フェティッシュ化)
- 多木浩二『天皇の肖像 (岩波現代文庫)』
- 参考:T・フジタ二『天皇のページェント 近代日本の歴史民族誌から (NHKブックス)』
- 佐藤守弘「遺影写真」『日本宗教史のキーワード:近代主義を超えて』
- アイコンとインデックスの併用=ミニアチュール絵画と遺髪
- 二重のインデックス=写真と遺髪
- 肖像から遺影へ
- ヴァナキュラー写真
- Vernacular - Wikipedia
- 遺影写真の三条件
デザイン論特講3 第15回
講義
- ストリートの戦術――流用とブリコラージュ
- 多義的な場としてのストリート
- ストリートとヴァナキュラー
- 考現学:今和次郎&吉田謙吉を中心とした都市の細部、痕跡を「採集」する行為
- 今和次郎の民家研究と採集
- 「建築外の建築」
- 「このような建築外の建築――人間がそのいる場所に、無意識のうちに築いている、いろいろな跡、すなわちいろいろなものをとり散らかしている有様そのまま――に厳密な態度で注意を突進めると、人間の動作の源泉の真理を考えることになる(「土間の研究図」)
- 建築への「空間」的視座
- ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)』(Michel de Certeau,Invention Du Quotid 1 (Collection Folio/Essais): Arts de Faire)
- 「空間とは実践された場所のことである。たとえば都市計画によって幾何学的にできあがった都市は、そこを歩く者たちによって空間に転換させられてしまう(M・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)』)
- 戦略(Strategy)と戦術(tactics)
- ストリート・トライブとブリコラージュ的戦術
- ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)』(Michel de Certeau,Invention Du Quotid 1 (Collection Folio/Essais): Arts de Faire)
- バラック装飾社=自生する建造物
- 考現学採集
- 「動物学者や植物学者が動物や植物に対してもつ態度と、われわれがわれわれの対象たる文化人に向けるのと変わりがないのである。考古学の態度と照らしてみると、それは遺物遺跡にたいする心境である。街のショーウィンドーの品物を歴史博物館の陳列品と同列に見るのである」。
- 『今和次郎 採集講義』
- 考現学:今和次郎&吉田謙吉を中心とした都市の細部、痕跡を「採集」する行為
- 超芸術トマソンから路上観察学へ
芸術学特論2 第14回
講義
- 写真と痕跡
- 痕跡の系譜
- 素描/絵画(塑像)の起源神話
- 痕跡と影絵(シルエット)
- デスマスク
- デス・マスクの型取りもまた、再現の過程での一種の自動性を示している。この意味では、写真を、光という代理人による事物の型取りと見なすこともできるだろう。(バザン「写真映像の存在論」)
- エルンスト・ベンカアト『永遠の貌』
- Lifecasting Tutorial: How to Make a Mold of Your Face with Alginate - YouTube
- ライフマスク制作体験記 - YouTube
- ライフマスクよ永遠に
- 痕跡の系譜
-
-
- 聖顔布とアケイロポイエートス(人の手に依らないイメージ)
- ここで聖遺物や「記念品」の心理学についても論じるべきかもしれない。それらもまた、ミイラ・コンプレックスに由来する、実在性の譲り渡しの恩恵に浴している。トリノの聖骸布が、聖遺物と写真の統合をなしとげていることだけ、指摘しておこう。(バザン「写真映像の存在論」)
- (参考)聖史上のある人物と接触を持ったとみなされるあらゆる品――その人物の体の一部をはじめとして――が聖遺物と見なされていた〔……〕〔それは〕聖人が生前に持っていた恩寵をそっくり保持していた。(クシシトフ・ポミアン『コレクション―趣味と好奇心の歴史人類学』、吉田城、吉田典子訳、平凡社、1992)
- マンディリオン/聖ヴェロニカの伝説
- インデックス性に由来する〈真正〉なる肖像
- 水野千依『キリストの顔: イメージ人類学序説 (筑摩選書)』
- 歌舞伎の押隈
- 宮武外骨の「無機械写真法」
- イヴ・クラインの《人体測定》
- ここで聖遺物や「記念品」の心理学についても論じるべきかもしれない。それらもまた、ミイラ・コンプレックスに由来する、実在性の譲り渡しの恩恵に浴している。トリノの聖骸布が、聖遺物と写真の統合をなしとげていることだけ、指摘しておこう。(バザン「写真映像の存在論」)
- 聖顔布とアケイロポイエートス(人の手に依らないイメージ)
-
デザイン論特講3 第14回
展覧会の話
講義
- 路上と痕跡:考古学的想像力
- 視覚的無意識と精神分析における無意識
- 徴候と推論
- 視覚的無意識と精神分析における無意識
- モレッリ法とフロイト
- 痕跡の採集者としての探偵
- シャーロック・ホームズの推理法
- 「細部を見抜く桁外れの才能」を持つホームズ
- ワトソンがホームズの推理に驚くのは、「僕の思考の流れを追い切れないか、大きな推論のもとになる小さな事実を観察し落としている」
- シャーロック・ホームズの推理法
- セレンディピティ=ちょっとした徴候から推論して解答に至ること
- 推論的パラダイム
- 推論=アブダクション
- 「化石が発見される。それは例えば魚の化石のようなもので、しかも陸地のずっと内側で見つかったとしよう。この現象を説明するために、われわれはこの一帯の陸地はかつては海であったにちがいないと考える。これも一つの仮説である(C・S・パース)」
- ウンベルト・エーコ『三人の記号―デュパン,ホームズ,パース』、トーマス・シービオック『シャーロック・ホームズの記号論―C.S.パースとホームズの比較研究 (同時代ライブラリー 209)』も参照のこと
- 「化石が発見される。それは例えば魚の化石のようなもので、しかも陸地のずっと内側で見つかったとしよう。この現象を説明するために、われわれはこの一帯の陸地はかつては海であったにちがいないと考える。これも一つの仮説である(C・S・パース)」
- 視覚的無意識と精神分析における無意識
- シュルレアリスムとオブジェ・トゥルヴェ
レポート課題
- 興味のあるポピュラー文化に関わるイメージやモノを一点選び、それを精密に記述した上で、本講義で扱ったさまざまな文化論を参考に論述する。
- 引用元、情報の出典、参考文献(書籍、ウェブなど)は、文末にリストの形で必ず明記すること(下記の字数には含めない)
- 書式:A4用紙横書き、明朝体 PDF形式で提出すること
- 字数:1200〜2000字
- 取り上げたイメージやモノの図版を、必ずレポート内にレイアウトすること。
- 提出締切:2月4日(土)深夜:クラスプロファイルに提出窓口を作ります
デザイン論特講3 第13回
講義
- 路上と痕跡:考古学的想像力
- ストリートと写真
- 視覚的無意識と精神分析における無意識
- 徴候と推論
- 視覚的無意識と精神分析における無意識
- モレッリ法とフロイト
- 痕跡の採集者としての探偵
- シャーロック・ホームズの推理法
- 「細部を見抜く桁外れの才能」を持つホームズ
- ワトソンがホームズの推理に驚くのは、「僕の思考の流れを追い切れないか、大きな推論のもとになる小さな事実を観察し落としている」
- シャーロック・ホームズの推理法
- セレンディピティ=ちょっとした徴候から推論して解答に至ること
- 推論的パラダイム
- 推論=アブダクション
- 「化石が発見される。それは例えば魚の化石のようなもので、しかも陸地のずっと内側で見つかったとしよう。この現象を説明するために、われわれはこの一帯の陸地はかつては海であったにちがいないと考える。これも一つの仮説である(C・S・パース)」
- ウンベルト・エーコ『三人の記号―デュパン,ホームズ,パース』、トーマス・シービオック『シャーロック・ホームズの記号論―C.S.パースとホームズの比較研究 (同時代ライブラリー 209)』も参照のこと
- 「化石が発見される。それは例えば魚の化石のようなもので、しかも陸地のずっと内側で見つかったとしよう。この現象を説明するために、われわれはこの一帯の陸地はかつては海であったにちがいないと考える。これも一つの仮説である(C・S・パース)」
- 視覚的無意識と精神分析における無意識
- シュルレアリスムとオブジェ・トゥルヴェ
- 反=風景としての「転地」(displacement/dépaysment)
- 参考:佐藤守弘「反風景的実践としての『採集』――桑原甲子雄と都市」『京都精華大学紀要』第31号、2006年9月、京都精華大学、1-16 = ここからPDFダウンロード
デザイン論特講3 第10回
講義
- ストリートと写真:森山大道の場合
芸術学特論2 第11回
講義
- 写真と痕跡
- アイコン=インデックス的記号としての写真――パース
- アイコン的記号/インデックス的記号/シンボル的記号(C・S・パースによる記号の三分類)
- インデックス的記号=対象物との物理的因果関係に基づく記号
- 写真、特にスナップ写真は非常に有益である。というのは、それらが表意している対象にある点でまったくよく似ているということをわれわれが知っているからである。しかしこの類似性というのは、写真が一点一点物理的に自然と対応するよう強いられるという状況のもとで作られたという事実によるものである。そういう点で、それらは記号の第二のクラスつまり物理的結合による記号のクラスに属する。(チャールズ・サンダース・パース『パース著作集2 記号学』、内田種臣訳、勁草書房、1986)
- アイコン→メタファー(隠喩)、インデックス→メトニミー(換喩)
- 瀬戸賢一『メタファー思考 (講談社現代新書)』
- 呪術の二類型
- アイコン的記号/インデックス的記号/シンボル的記号(C・S・パースによる記号の三分類)
- 写真映像の存在論――バザン
- 画家という人間の存在ゆえに、絵画には疑いがつきまとった。〔…〕絵画と比べた場合の写真の独創性は、その本質的な客観性にある。〔…〕対象となる事物とその表象のあいだに、もうひとつの物以外に何も介在しないという事態が初めて生じたのだ。外部世界のイメージは初めて、人間の創造的介入なしに、動かしがたいプロセスに従って自動的に得られるようになった。〔…〕写真は花や雪の結晶のような「自然」現象として私たちに働きかける。〔…〕写真は事物からその写しへと、実在性が譲り渡されることの恩恵に浴している。〔…〕ボケていたり、変形や変色が生じていたり、資料的価値がなかったりするかもしれないが、しかし写真はその生成過程からして、モデルの存在自体に根ざしている。写真とはモデルそのものなのだ。
- 〔…〕デスマスクもまた、一種の自動的な再現技術ではあるからだ。その意味で写真は、光による刻印の技術とみなすことができただろう。(アンドレ・バザン『映画とは何か(上) (岩波文庫)』)
- 写真=「コードのないメッセージ」――バルト
- 写真のメッセージの中身は何だろうか。写真は何を伝えるのだろうか。当然、光景そのもの、そのものずばりの現実である。〔……〕現実そのものから写真に写すにあたって、現実を単位に細分して、それを写真が読むべきものとして与える対象とは素材の異なる記号として再構成する必要はまったくない。このオブジェと映像の間に中継物、すなわちコードを設定する必要はまったくない。たしかに映像は現実のものではない。しかし少なくともその完璧なアナロゴン〔相似物〕であって、常識的に写真を構成するのはまさしくこの類似の完全性なのである。こうして写真映像の特殊な位置づけがでてくる。写真はコードのないメッセージであるという位置である。(ロラン・バルト「写真のメッセージ」『映像の修辞学 (ちくま学芸文庫)』、あるいは『第三の意味―映像と演劇と音楽と)
- 「それは=かつて=あった」
- 「写真」が数かぎりなく再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである。〔……〕写真は、「ほら、これです、このとおりです!」と言うだけで、ほかのことは何も言わない。写真は哲学的に変換する(言葉にする)ことはできない。〔……〕「写真」は何か目の前にあるものを指さすのであって、そうした純粋に指呼的な言語活動の域を脱することができない。(10)
- 私が《写真の指向対象》と呼ぶものは、ある映像またはある記号によって指し示されるものであるが、それは現実のものであってもなくてもよいというわけではなく、必ず現実のものでなければならない。それはカメラの前に置かれていたものであって、これがなければ写真は存在しないであろう。〔……〕絵画や言説における模倣とちがって、「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。〔……〕それゆえ、「写真」のノエマ〔現象学的な本質〕の名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」である。〔……〕それはかつてそこにあった、がしかし、ただちに引き離されてしまった。それは絶対に、異論の余地なく現前していた。がしかし、すでによそに移され相異している。
- 写真とは文字どおり指向対象から発出したものである。そこに存在した現実の物体から、放射物が発せられ、それがいまここにいる私に触れにやって来るのだ。〔……〕私は、かつて存在したものがその直接的な放射物(その光)によって実際に触れた写真の表面に、こんどは私の視線が触れにいくのだと考えるとひどく嬉しくなる(あるいは暗い気持ちになる)〔……〕(ロラン・バルト『明るい部屋―写真についての覚書』)
- ロザリンド・クラウス――指標論
- いかなる写真も、光の反映を感光性の表面に転写した物理的痕跡の結果である。写真はそれゆえ、一種のイコン〔アイコン〕つまり視覚的類似性であり、対象に対し指標〔インデックス〕的関係を持つ。真のイコン〔アイコン〕との隔たりを写真が感じさせるのは、この完全に物理的な生成によってである。つまり、大抵の絵画の描写的表象のなかで作用している図式化とか象徴的介入といったプロセスの入りこむ余地を与えない、もしくはそうしたプロセスを短絡化しているように見えるような物理的生成によってである。(ロザリンド・クラウス『アヴァンギャルドのオリジナリティ ―― モダニズムの神話』)
- 写真のインデックス論に対する批判
- トム・ガニング「インデックスの何が問題なのか? あるいは、さまざまな偽造写真」、「インデックスから離れて——映画と現実性の印象」、『映像が動き出すとき――写真・映画・アニメーションのアルケオロジー』
- アイコン=インデックス的記号としての写真――パース
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- 痕跡の系譜
- 素描/絵画(塑像)の起源神話
- 痕跡と影絵(シルエット)
- デスマスク
- デス・マスクの型取りもまた、再現の過程での一種の自動性を示している。この意味では、写真を、光という代理人による事物の型取りと見なすこともできるだろう。(バザン「写真映像の存在論」)
- エルンスト・ベンカアト『永遠の貌』
- Lifecasting Tutorial: How to Make a Mold of Your Face with Alginate - YouTube
- ライフマスク制作体験記 - YouTube
- ライフマスクよ永遠に
- 痕跡の系譜
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- 聖顔布とアケイロポイエートス(人の手に依らないイメージ)
- ここで聖遺物や「記念品」の心理学についても論じるべきかもしれない。それらもまた、ミイラ・コンプレックスに由来する、実在性の譲り渡しの恩恵に浴している。トリノの聖骸布が、聖遺物と写真の統合をなしとげていることだけ、指摘しておこう。(バザン「写真映像の存在論」)
- (参考)聖史上のある人物と接触を持ったとみなされるあらゆる品――その人物の体の一部をはじめとして――が聖遺物と見なされていた〔……〕〔それは〕聖人が生前に持っていた恩寵をそっくり保持していた。(クシシトフ・ポミアン『コレクション―趣味と好奇心の歴史人類学』、吉田城、吉田典子訳、平凡社、1992)
- マンディリオン/聖ヴェロニカの伝説
- インデックス性に由来する〈真正〉なる肖像
- 水野千依『キリストの顔: イメージ人類学序説 (筑摩選書)』
- 歌舞伎の押隈
- 宮武外骨の「無機械写真法」
- イヴ・クラインの《人体測定》
- ここで聖遺物や「記念品」の心理学についても論じるべきかもしれない。それらもまた、ミイラ・コンプレックスに由来する、実在性の譲り渡しの恩恵に浴している。トリノの聖骸布が、聖遺物と写真の統合をなしとげていることだけ、指摘しておこう。(バザン「写真映像の存在論」)
- 聖顔布とアケイロポイエートス(人の手に依らないイメージ)
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デザイン論特講3 第9回
講義
- ストリートの戦術――流用とブリコラージュ
- 多義的な場としてのストリート
- シカゴのマックスウェル・ストリート:『ブルース・ブラザース [DVD]』/- YouTube
- 天王寺の青空カラオケ:大阪天王寺公園裏の路上カラオケ - YouTube
- ハイレッド・センター「芸術のテスト」
- 転用とセミ=ラティス構造
- トゥリー構造とセミ=ラティス構造
- クリストファー・アレクザンダー「都市はツリーではない」
- 中谷礼仁「自尊心の強い少年」(『セヴェラルネス+(プラス)―事物連鎖と都市・建築・人間』)
- ハイレッド・センター「芸術のテスト」
- ストリートとヴァナキュラー
- 考現学:今和次郎&吉田謙吉を中心とした都市の細部、痕跡を「採集」する行為
- 今和次郎の民家研究と採集
- 「建築外の建築」
- 「このような建築外の建築――人間がそのいる場所に、無意識のうちに築いている、いろいろな跡、すなわちいろいろなものをとり散らかしている有様そのまま――に厳密な態度で注意を突進めると、人間の動作の源泉の真理を考えることになる(「土間の研究図」)
- 建築への「空間」的視座
- ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)』(Michel de Certeau,Invention Du Quotid 1 (Collection Folio/Essais): Arts de Faire)
- 「空間とは実践された場所のことである。たとえば都市計画によって幾何学的にできあがった都市は、そこを歩く者たちによって空間に転換させられてしまう(M・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)』)
- 戦略(Strategy)と戦術(tactics)
- ストリート・トライブとブリコラージュ的戦術
- ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)』(Michel de Certeau,Invention Du Quotid 1 (Collection Folio/Essais): Arts de Faire)
- バラック装飾社=自生する建造物
- 考現学採集
- 「動物学者や植物学者が動物や植物に対してもつ態度と、われわれがわれわれの対象たる文化人に向けるのと変わりがないのである。考古学の態度と照らしてみると、それは遺物遺跡にたいする心境である。街のショーウィンドーの品物を歴史博物館の陳列品と同列に見るのである」。
- 『今和次郎 採集講義』
- 考現学:今和次郎&吉田謙吉を中心とした都市の細部、痕跡を「採集」する行為
- 超芸術トマソンから路上観察学へ
- 多義的な場としてのストリート
芸術学特論2 第10回
文献紹介
- ジル・モラ『写真のキーワード―技術・表現・歴史』
講義
- 写真と痕跡
- アイコン=インデックス的記号としての写真――パース
- アイコン的記号/インデックス的記号/シンボル的記号(C・S・パースによる記号の三分類)
- インデックス的記号=対象物との物理的因果関係に基づく記号
- 写真、特にスナップ写真は非常に有益である。というのは、それらが表意している対象にある点でまったくよく似ているということをわれわれが知っているからである。しかしこの類似性というのは、写真が一点一点物理的に自然と対応するよう強いられるという状況のもとで作られたという事実によるものである。そういう点で、それらは記号の第二のクラスつまり物理的結合による記号のクラスに属する。(チャールズ・サンダース・パース『パース著作集2 記号学』、内田種臣訳、勁草書房、1986)
- アイコン→メタファー(隠喩)、インデックス→メトニミー(換喩)
- 瀬戸賢一『メタファー思考 (講談社現代新書)』
- 呪術の二類型
- アイコン的記号/インデックス的記号/シンボル的記号(C・S・パースによる記号の三分類)
- 写真映像の存在論――バザン
- 画家という人間の存在ゆえに、絵画には疑いがつきまとった。〔…〕絵画と比べた場合の写真の独創性は、その本質的な客観性にある。〔…〕対象となる事物とその表象のあいだに、もうひとつの物以外に何も介在しないという事態が初めて生じたのだ。外部世界のイメージは初めて、人間の創造的介入なしに、動かしがたいプロセスに従って自動的に得られるようになった。〔…〕写真は花や雪の結晶のような「自然」現象として私たちに働きかける。〔…〕写真は事物からその写しへと、実在性が譲り渡されることの恩恵に浴している。〔…〕ボケていたり、変形や変色が生じていたり、資料的価値がなかったりするかもしれないが、しかし写真はその生成過程からして、モデルの存在自体に根ざしている。写真とはモデルそのものなのだ。
- 〔…〕デスマスクもまた、一種の自動的な再現技術ではあるからだ。その意味で写真は、光による刻印の技術とみなすことができただろう。(アンドレ・バザン『映画とは何か(上) (岩波文庫)』)
- 写真=「コードのないメッセージ」――バルト
- 写真のメッセージの中身は何だろうか。写真は何を伝えるのだろうか。当然、光景そのもの、そのものずばりの現実である。〔……〕現実そのものから写真に写すにあたって、現実を単位に細分して、それを写真が読むべきものとして与える対象とは素材の異なる記号として再構成する必要はまったくない。このオブジェと映像の間に中継物、すなわちコードを設定する必要はまったくない。たしかに映像は現実のものではない。しかし少なくともその完璧なアナロゴン〔相似物〕であって、常識的に写真を構成するのはまさしくこの類似の完全性なのである。こうして写真映像の特殊な位置づけがでてくる。写真はコードのないメッセージであるという位置である。(ロラン・バルト「写真のメッセージ」『映像の修辞学 (ちくま学芸文庫)』、あるいは『第三の意味―映像と演劇と音楽と)
- 「それは=かつて=あった」
- 「写真」が数かぎりなく再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである。〔……〕写真は、「ほら、これです、このとおりです!」と言うだけで、ほかのことは何も言わない。写真は哲学的に変換する(言葉にする)ことはできない。〔……〕「写真」は何か目の前にあるものを指さすのであって、そうした純粋に指呼的な言語活動の域を脱することができない。(10)
- 私が《写真の指向対象》と呼ぶものは、ある映像またはある記号によって指し示されるものであるが、それは現実のものであってもなくてもよいというわけではなく、必ず現実のものでなければならない。それはカメラの前に置かれていたものであって、これがなければ写真は存在しないであろう。〔……〕絵画や言説における模倣とちがって、「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。〔……〕それゆえ、「写真」のノエマ〔現象学的な本質〕の名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」である。〔……〕それはかつてそこにあった、がしかし、ただちに引き離されてしまった。それは絶対に、異論の余地なく現前していた。がしかし、すでによそに移され相異している。
- 写真とは文字どおり指向対象から発出したものである。そこに存在した現実の物体から、放射物が発せられ、それがいまここにいる私に触れにやって来るのだ。〔……〕私は、かつて存在したものがその直接的な放射物(その光)によって実際に触れた写真の表面に、こんどは私の視線が触れにいくのだと考えるとひどく嬉しくなる(あるいは暗い気持ちになる)〔……〕(ロラン・バルト『明るい部屋―写真についての覚書』)
- ロザリンド・クラウス――指標論
- いかなる写真も、光の反映を感光性の表面に転写した物理的痕跡の結果である。写真はそれゆえ、一種のイコン〔アイコン〕つまり視覚的類似性であり、対象に対し指標〔インデックス〕的関係を持つ。真のイコン〔アイコン〕との隔たりを写真が感じさせるのは、この完全に物理的な生成によってである。つまり、大抵の絵画の描写的表象のなかで作用している図式化とか象徴的介入といったプロセスの入りこむ余地を与えない、もしくはそうしたプロセスを短絡化しているように見えるような物理的生成によってである。(ロザリンド・クラウス『アヴァンギャルドのオリジナリティ ―― モダニズムの神話』)
- 写真のインデックス論に対する批判
- トム・ガニング「インデックスの何が問題なのか? あるいは、さまざまな偽造写真」、「インデックスから離れて——映画と現実性の印象」、『映像が動き出すとき――写真・映画・アニメーションのアルケオロジー』
- 聖顔布とアケイロポイエートス(人の手に依らないイメージ)
- ここで聖遺物や「記念品」の心理学についても論じるべきかもしれない。それらもまた、ミイラ・コンプレックスに由来する、実在性の譲り渡しの恩恵に浴している。トリノの聖骸布が、聖遺物と写真の統合をなしとげていることだけ、指摘しておこう。(バザン「写真映像の存在論」)
- (参考)聖史上のある人物と接触を持ったとみなされるあらゆる品――その人物の体の一部をはじめとして――が聖遺物と見なされていた〔……〕〔それは〕聖人が生前に持っていた恩寵をそっくり保持していた。(クシシトフ・ポミアン『コレクション―趣味と好奇心の歴史人類学』、吉田城、吉田典子訳、平凡社、1992)
- マンディリオン/聖ヴェロニカの伝説
- インデックス性に由来する〈真正〉なる肖像
- 水野千依『キリストの顔: イメージ人類学序説 (筑摩選書)』
- 歌舞伎の押隈
- 宮武外骨の「無機械写真法」
- イヴ・クラインの《人体測定》
- ここで聖遺物や「記念品」の心理学についても論じるべきかもしれない。それらもまた、ミイラ・コンプレックスに由来する、実在性の譲り渡しの恩恵に浴している。トリノの聖骸布が、聖遺物と写真の統合をなしとげていることだけ、指摘しておこう。(バザン「写真映像の存在論」)
- アイコン=インデックス的記号としての写真――パース
芸術学特論2 第9回
講義
- 写真と痕跡
- アイコン=インデックス的記号としての写真――パース
- アイコン的記号/インデックス的記号/シンボル的記号(C・S・パースによる記号の三分類)
- インデックス的記号=対象物との物理的因果関係に基づく記号
- 写真、特にスナップ写真は非常に有益である。というのは、それらが表意している対象にある点でまったくよく似ているということをわれわれが知っているからである。しかしこの類似性というのは、写真が一点一点物理的に自然と対応するよう強いられるという状況のもとで作られたという事実によるものである。そういう点で、それらは記号の第二のクラスつまり物理的結合による記号のクラスに属する。(チャールズ・サンダース・パース『パース著作集2 記号学』、内田種臣訳、勁草書房、1986)
- アイコン→メタファー(隠喩)、インデックス→メトニミー(換喩)
- 瀬戸賢一『メタファー思考 (講談社現代新書)』
- 呪術の二類型
- アイコン的記号/インデックス的記号/シンボル的記号(C・S・パースによる記号の三分類)
- 写真映像の存在論――バザン
- 画家という人間の存在ゆえに、絵画には疑いがつきまとった。〔…〕絵画と比べた場合の写真の独創性は、その本質的な客観性にある。〔…〕対象となる事物とその表象のあいだに、もうひとつの物以外に何も介在しないという事態が初めて生じたのだ。外部世界のイメージは初めて、人間の創造的介入なしに、動かしがたいプロセスに従って自動的に得られるようになった。〔…〕写真は花や雪の結晶のような「自然」現象として私たちに働きかける。〔…〕写真は事物からその写しへと、実在性が譲り渡されることの恩恵に浴している。〔…〕ボケていたり、変形や変色が生じていたり、資料的価値がなかったりするかもしれないが、しかし写真はその生成過程からして、モデルの存在自体に根ざしている。写真とはモデルそのものなのだ。
- 〔…〕デスマスクもまた、一種の自動的な再現技術ではあるからだ。その意味で写真は、光による刻印の技術とみなすことができただろう。(アンドレ・バザン『映画とは何か(上) (岩波文庫)』)
- 写真=「コードのないメッセージ」――バルト
- 写真のメッセージの中身は何だろうか。写真は何を伝えるのだろうか。当然、光景そのもの、そのものずばりの現実である。〔……〕現実そのものから写真に写すにあたって、現実を単位に細分して、それを写真が読むべきものとして与える対象とは素材の異なる記号として再構成する必要はまったくない。このオブジェと映像の間に中継物、すなわちコードを設定する必要はまったくない。たしかに映像は現実のものではない。しかし少なくともその完璧なアナロゴン〔相似物〕であって、常識的に写真を構成するのはまさしくこの類似の完全性なのである。こうして写真映像の特殊な位置づけがでてくる。写真はコードのないメッセージであるという位置である。(ロラン・バルト「写真のメッセージ」『映像の修辞学 (ちくま学芸文庫)』、あるいは『第三の意味―映像と演劇と音楽と)
- 「それは=かつて=あった」
- 「写真」が数かぎりなく再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである。〔……〕写真は、「ほら、これです、このとおりです!」と言うだけで、ほかのことは何も言わない。写真は哲学的に変換する(言葉にする)ことはできない。〔……〕「写真」は何か目の前にあるものを指さすのであって、そうした純粋に指呼的な言語活動の域を脱することができない。(10)
- 私が《写真の指向対象》と呼ぶものは、ある映像またはある記号によって指し示されるものであるが、それは現実のものであってもなくてもよいというわけではなく、必ず現実のものでなければならない。それはカメラの前に置かれていたものであって、これがなければ写真は存在しないであろう。〔……〕絵画や言説における模倣とちがって、「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。〔……〕それゆえ、「写真」のノエマ〔現象学的な本質〕の名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」である。〔……〕それはかつてそこにあった、がしかし、ただちに引き離されてしまった。それは絶対に、異論の余地なく現前していた。がしかし、すでによそに移され相異している。
- 写真とは文字どおり指向対象から発出したものである。そこに存在した現実の物体から、放射物が発せられ、それがいまここにいる私に触れにやって来るのだ。〔……〕私は、かつて存在したものがその直接的な放射物(その光)によって実際に触れた写真の表面に、こんどは私の視線が触れにいくのだと考えるとひどく嬉しくなる(あるいは暗い気持ちになる)〔……〕(ロラン・バルト『明るい部屋―写真についての覚書』)
- ロザリンド・クラウス――指標論
- あらゆる写真は、光のもろもろの反映を感光紙の表面上に転写した物理的痕跡なのである。写真はそれ故、イコン〔アイコン〕つまり視覚的類似の一種であるが、対象に対し指標〔インデックス〕的関係を持っているのである。真のイコン〔アイコン〕との隔たりを写真が感じさせるのは、この完全に物理的な生成によってである。つまり、大抵の絵画の描写的再現=表象の中で作用している組織的配列とか象徴的な意味の介在といったプロセスの入り込む余地を与えない、もしくはそうしたプロセスを短絡させるように見える、全くの物理的生成によってである。(ロザリンド・クラウス『オリジナリティと反復―ロザリンド・クラウス美術評論集』)
- アイコン=インデックス的記号としての写真――パース
デザイン論特講 第7回
講義
- ブリコラージュとしてのストリート・スタイル
- ブリコラージュ=間に合わせ、あり合わせの素材と道具を用いて新しいモノを作り出す器用仕事のこと。本来は、部族社会における活動を指すが、現代の資本主義社会において、既製の商品を使って新たな意味を作り出す作業のこともいう。
- 「起爆剤としてのハイファッションとストリートの文脈は終わった」―パンクからつながる次なるファッションカルチャーとは
- シチュアシオニストからパンクへ
デザイン論特講3 第7回
- さまざまな「カルチャー」
- サブカルチャーから「文化」を考える
- モッド・サブカルチャー
- サブカルチャーの転生
- スキンヘッド、ノーザン・ソウル、モッド・リヴァイヴァル、ルード・ボーイ
- 連載「ルーディたちのスタイルとデザイン——2トーンと視覚文化」(全3回) 第1回:UKブラックの系譜 文:佐藤守弘(視覚文化研究)|Column|AMeeT
- 連載「ルーディたちのスタイルとデザイン——2トーンと視覚文化」(全3回) 第2回:日常のポリティクス 文:佐藤守弘(視覚文化研究)|Column|AMeeT
- 連載「ルーディたちのスタイルとデザイン——2トーンと視覚文化」(全3回) 第3回:ジェリー・ダマーズのデザイン 文:佐藤守弘(視覚文化研究)|Column|AMeeT
- サブカルチャーから「文化」を考える
芸術学特論2 第8回
講義
- ウィリアム・ヘンリー・フォックス・トルボット
- 写真集『自然の鉛筆 Pencil of Nature』(1844-46)
- Sun pictures: Henry Fox Talbot and the first photographs · SFMOMA
- 写真と複数性
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- 複製技術=再生産(reproduction)と複数生産(multiple)
- ネガ=ポジ法とは:版画・印刷・印画(プリント・カルチャー)
- 湿式コロディオン法(ガラス・ネガ)と鶏卵紙(アルビュメン・プリント)
- ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」(『ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)』などに所収)
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- メディアと複製技術
- media=mediumの複数形
- medium=媒体/霊媒
- 情報/メッセージを乗せて、発信者から受信者へと届ける乗り物のようなもの
- 機械的複製技術(Mechanical Reproduction)
- 1839:写真術(ダゲールによるダゲレオタイプ)
- 1841:ネガ=ポジ法(トルボットによるカロタイプ)
- 1877:録音技術(エディソンによるフォノグラフ)
- 1887:ディスク型録音装置(ベルリナーによるグラモフォン)
- 1895:映画(リュミエール兄弟によるシネマトグラフ)
- 1926:トーキー映画(ワーナー・ブラザーズによるヴァイタフォン)
- 参考:記録技術の年表 - Wikipedia(および通信技術の年表 - Wikipediaも)
- 1839:写真術(ダゲールによるダゲレオタイプ)
- media=mediumの複数形