昨日のフォローアップ
- 「腰パン」とカスタマイゼーション(→講義)
- リンガ・フランカとヴァナキュラー(→講義)
- パノプティコンとパノラマ(→講義)
- 「お地蔵様の多頭飼い」笑
- 鳥肌実
- 「ツルツルの画面」と「ツルツルの人間関係」
- ファッションと倫理
- 日本の近代化と「美術」
- 江戸の遠近法
- 岸文和『江戸の遠近法―浮絵の視覚』
- 「洋風画」から「洋画」へ
- 洋画/日本画という制度
- 伝統の創造
- ホブスボウム&レンジャー『創られた伝統 (文化人類学叢書)』
- 江戸の遠近法
- 「風景の発見」
- 風景 landscape=ヨーロッパ近代において成立し、その覇権の伸張とともに世界中に広がったもので、幾何学的遠近法をベースとして、自己(主体)と環境(客体/他者)を視覚的に媒介する表象=意味付けのシステム。
- 「風景はもと今日の食物と同じように色や形の後ろに味というものを持っていたのみか、さらにこれに伴うていろいろの香と音響の、忘れがたいものを具えていたのである。それを一枚の平たく静かなものにする技芸が起こって、まずその中から飛び動くものが消え去った」 柳田國男『明治大正史:世相篇』
- 「〔さまざまな「風景」を〕静かに眺めて居ることは、「汽車の窓」にしてはじめて可能である。或はまた「要望なき交渉」と名づけて良いであろう。捕らうといふ気にもならぬ小鳥、摘んで食べようとも思はない紅色の果実が、あゝ美しいといつて見られる場合は、弥次や喜多八の時代には、さう沢山には遭遇することができなかったのである」 柳田「豆の葉と太陽」
- 「実朝も芭蕉もけっして「風景」をみたのではない。彼らにとって、風景は言葉であり、過去の文学にほかならなかった」/「風景がいったん成立すると、その起源は忘れさられる・・・それは、はじめから外的に存在する客観物のようにみえる。ところが、客観物なるものは、むしろ風景のなかで成立したのである。主観あるいは自己もまた同様である。主観(主体)・客観(客体)という認識論的な場は、「風景」において成立したのである」 (柄谷行人『定本 日本近代文学の起源 (岩波現代文庫)』)
- 「地図的観念、絵画的観念とは主観的人事には何等の関係も無く只客観的万事の見やうの相違なり。一言にして之を蔽へば地図的観念は万物を下に見、絵画的観念は万物を横に見るなり。吾人が実際界に於て普通に見る所の景色は是れ絵画的にして山々相畳み樹々相重り一山は一山より遠く一樹は一樹より深く空間に遠近あり色彩に濃淡あり前者大に後者小に近き者現はれ遠き者隠るゝを免れず」 (正岡子規「地図的観念と絵画的観念」)
- 「〔叙事文=写生文とは〕とにかく読者をして作者と同一の地位に立たしむるの効力はあるべし。作者若し須磨に在らば読者も須磨に在る如く感じ、作者若し眼前に美人を見居らば、読者も亦眼前に美人を見居る如く感ずる…」(正岡子規「叙事文」1900)
- 風景 landscape=ヨーロッパ近代において成立し、その覇権の伸張とともに世界中に広がったもので、幾何学的遠近法をベースとして、自己(主体)と環境(客体/他者)を視覚的に媒介する表象=意味付けのシステム。
視線と権力
- イメージと視線
- 観者を見つめるイメージ:はたらきかける「視線」
- ジェンダーと視線
- ティントレット《スザンナの水浴》
- ストーリー:「美しい若妻スザンナが沐浴しているときに、長老二人が近寄り、言い寄った。しかし、スザンナは拒絶した。逆恨みした長老たちは、スザンナを姦通罪で訴え、スザンナは死刑になってしまいそうになる。そこで、預言者ダニエルは二人の長老を尋問し、矛盾を暴き、スザンナの無実が実証された。二人の長老は死刑となった」(旧約聖書ダニエル書外典より)。
- 3つのまなざし
- スザンナを「覗き見」る長老たちのまなざし=見返されることのない「非対称」のまなざし
- 鏡を見るスザンナのまなざし=自らを見る:男性のまなざしを内面化したまなざし
- 絵を見る観者のまなざし=メタ・レヴェルのまなざし:ポルノグラフィ?
- ジェンダー=社会的、文化的に定められた性差(男らしさ/女らしさなど):生物学的な性差(セックス)とは区別される。
- 男性優位のジェンダー構成においては、男性は見る主体であり、女性は見られる対象となる。
- 視線の主体である男性は、「見る」という行為によって女性という「他者」を性格づける。
- 男性(主体)は、女性(他者)に付与したそれぞれの性格(受動的、露出、イメージ、感情、神秘、自然…)の反対語(能動的、窃視、言語、理性、好奇心、文化…)を自らに付与する。
- 「主体」とは先験的に存在する物ではなく、「他者」との関係の網目のうちに構築される物である。
- 「男は行動し、女は見られる。男は女を見る。女は見られている自分自身を見る。これは男女間の関係を決定するばかりでなく、女性の自分自身に対する関係をも決定してしまうだろう。彼女の中の観察者は男であった。そして被観察者は女であった。彼女は自分自身を対象に転化させる。それも視覚の対象にである。つまりそこで彼女は光景となる」(ジョン・バージャー『イメージ Ways of Seeing―視覚とメディア (PARCO PICTURE BACKS)』)。
- マネ《オランピア》の視線
- 「オリエンタリズム」と視線
- オリエンタリズム=ヨーロッパのオリエントに対する支配的言説の様式
- オリエントは…ヨーロッパ人の心のもっとも奥深いところから繰り返したち現れる他者イメージでもあった。そのうえオリエントは、ヨーロッパ(つまり西洋)がみずからを、オリエントと対照をなすイメージ、観念、人格、経験を有するものとして規定するうえで役だった(E・サイード『オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)』)。
- 視線の内面化
観光という視覚文化
- 鉄道と広告
- 国鉄/JR東海の観光キャンペーン史年表
- 1964 東海道新幹線開通
- 1968 「ヨンサントオ」ダイヤ大改正 →SLブーム
- 1970 大阪万博 「ディスカバー・ジャパン」 『an・an』『non-no』創刊
- 1978 「いい日旅立ち——DISCOVER JAPAN 2」
- 1984 「エキゾチック・ジャパン」
- 1987 国鉄分割民営化 「シンデレラ・エクスプレス」(以降エクスプレス・シリーズ×7)
- 1993 「そうだ 京都、行こう。」
- クリスマス・エクスプレスの頃
- 「ディスカバー・ジャパン」キャンペーン
- 構築される京都
- 沖縄と観光
- 戦後沖縄観光の歴史
- 沖縄海洋博
- 多田治『沖縄イメージの誕生―青い海のカルチュラル・スタディーズ』
- エキゾティックな場所としての沖縄
- YMOとセルフ・オリエンタリズム
- チャンプルー・ミュージック:沖縄音楽の発見
- 「ヴァナキュラー」とは?
- 土地に固有のもの、方言/話し言葉、アマチュア/素人、市場外の経済
- 「社会環境のもたらす無数の変異を受け入れるきわめて流動的で可変的な特質を持っている」(今福龍太『クレオール主義 (ちくま学芸文庫)』)
- 国鉄/JR東海の観光キャンペーン史年表
サブカルチャーとポップカルチャー
- さまざまな「カルチャー」
- ハイ・カルチャー=高級文化、社会的エリート(王侯貴族、宗教的権威、ブルジョワ、知識人など)の文化。
- ポピュラー・カルチャー=民衆文化。近代に限らない被支配層の文化。以下の諸文化の上位概念。
- フォーク・カルチャー=民俗文化。おおく産業化以前の社会における伝統的文化について用いられるが、最近はヴァナキュラー・カルチャーに近い意味で用いられることも多い。
- ヴァナキュラー・カルチャー=多くは無名の作者による制作物からなり、市場で取引されることの少ない、ある土地独特の文化を指す。
- マス・カルチャー=大衆文化。多くの人達のために大量に作られる文化。複製技術を前提にする。
- ポップ・カルチャー=ポピュラー・カルチャーと同義にも用いられることもあるが、つかの間の流行といった意味も持つ。マス・カルチャーの享楽的な部分?
- サブカルチャー=主流(ドミナント)ではない、少数者による周縁的な文化。
- 「サブカル」=90年代の日本で、「オタク」系ではないお洒落なサブカルチャーに対して用いられはじめた言葉(入門「オタク」と「サブカル」はどう違うのか? 90年代の源流をたどる | アーバン ライフ メトロ)
- カウンター・カルチャー=サブカルチャーのうち、主流文化に対する対抗的/反抗的な性格が強いもの
- アンダーグラウンド・カルチャー=→「アングラ」:「地下」→「非合法」→主流ではない批判的・実験的な文化
- オルタナティヴ・カルチャー=これまでとは違う文化。「カウンター」、「アンダーグラウンド」の代わりに用いられるようになった
- 「「ポピュラー・カルチャー」という語は、日本語で言う「民衆文化」とほぼ同義であり、本稿ではハイ・カルチャー、エリートの文化ではない、フォーク・カルチャー、マス・カルチャー、カウンター・カルチャー、そしてポップ・カルチャーを含む上位概念として使用していく。「マス・カルチャー」は、すなわち「大衆文化」で、大量生産され、大衆によって大量消費される文化のこと。これは明らかに近代以降の歴史的存在であり、時にはハイ・カルチャーをも取り込むこともある。「サブカルチャー」は、社会における主流のドミナントな文化に副次的に存在する文化のことで、それは、年齢、ジェンダー/セクシュアリティ、エスニシティ、階級、さらには趣味や嗜好による独自性を持った諸集団——「大衆」という画一的枠組みにはまらない——によって担われるものとする」。(佐藤守弘「消費文化への両義的な対処法──マスメディア時代の「ポップ」再考、UNPOPULAR POP報告書 – UNPOPULAR POP、pp.160-184)」
- 「そもそも、同じポピュラー・カルチャーに分類されてはいても、フォーク・カルチャー(民俗文化)と近代的なマス・カルチャー(ひいてはポップ・カルチャー)は、定義上、相容れないものと考えられていた。本来は小さなコミュニティで共有されていたフォーク・カルチャーは、近代の都市におけるメディアの変容によって登場するマス・カルチャーに征服されてしまい、真正な文化財と して保存されるしかない運命を辿ったとされる。ちなみに「定義上」と書いたのは、その考えがクレメント・グリーンバーグなどが考えたように古いものであり、たとえば現代の民俗学の最前線 ──菊地暁『民俗学入門』(岩波新書、二〇二二)に見られるような──では、フォーク・カルチャーを必ずしもそのように捉えているとは限らないからである」(佐藤守弘「民謡クルセイダーズ——矛盾の肯定」同上、p.124)
- サブカルチャーから「文化」を考える
- イギリスのユース・サブカルチャーズ:50年代のテディ・ボーイズ
- ディック・ヘブディジ『サブカルチャー: スタイルの意味するもの』
- ジョン・サヴェージ『イギリス「族」物語』
- Ted Polhemus, Street Style
- モッド・サブカルチャー
- サブカルチャーとブリコラージュ的戦術
- 戦略 Strategy vs. 戦術 Tactics
- ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)』
- ブリコラージュ
- ブリコラージュ的戦術
- ディック・ヘブディジ『サブカルチャー: スタイルの意味するもの』
- 戦略 Strategy vs. 戦術 Tactics
- イギリスのユース・サブカルチャーズ:50年代のテディ・ボーイズ
広告のレトリック
- 広告という文化
- 「欲求need」と「欲望desire」のちがい
- 「欲求は満足することができる。でも欲望は、決して満足しない。そして人間の活動は、そのほとんどがこうした「満たされない欲望」のうえに成立している。僕たちは自分の抱えた欲望を、そのつどちょっとずつ満たしてやることで、最終解決は先送りしながら生きている。〔…〕実はこういう欲望のメカニズムは、「資本主義」システムのそれとよく似ている。いろんな問題解決を常に先送りしながら成立しているこのシステムは、その究極的な解消がありえないことが、システム成立のための重要なよりどころになっている」
- 「いわゆる資本主義とは、交換過程の偶発的性格(交換の可能性がその場その場の個人的な欲求に依存すること)を克服するために、支払うものの欲求を身体的・生理的な領域から解放し、交換の動機付けとなる欲求〔=欲望?〕を自己創出する動的システムのことなのだ。〔…〕資本システムは広告という意味媒体によって差異を自己生産し、私たちの欲求を創出する」
- 広告=受容者の未来の行動を指示するイメージ
- 「広告の目的は、見る者の現実の生活に対して最大限の不満を抱かせようとするものである。その社会の生活様式への不満ではなく、自分自身の生活への不満である。この商品を買えばあなたの生活はより良くなると広告は提案する。広告は見る者により良い状態にあるもう一つの彼を示す」。
- 「あらゆる広告は不安をかきたてる。すべてのことはお金に集約され、お金を手に入れることがその不安を克服することである。いいかえれば広告がかりたてる不安とは、何も持たなければ、自分自身も何者でもなくなってしまうという不安である」。
- その定義からいって広告にとって現在は不十分なものである。〔……〕束の間の生命しかない広告イメージは未来形しか用いない。これを買えば、あなたは魅力的になるだろう。こうした環境で暮らせば、あなたの人間関係はすべて快調で輝かしいものになるだろう。〔……〕広告は未来形で語る。しかしその未来への到達は限りなく先へ延ばされる。それではどのようにして広告は、その広範な影響を及ぼす説得力を保つのだろうか。広告が説得力を失わないのは、広告の真実性が、その広告の約束することが本当に実現されるかによって判断されるのではなく、〈見る者=購買者〉に与える幻想がどれだけ有効性を持つかによって判断されるからである。広告は本質的に、現実とではなく白昼夢と結びつく」。
- 消費者に呼びかける広告
- ルイ・アルチュセール『再生産について 上 イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー)』
- ジュディス・ウィリアムソン『広告の記号論―記号生成過程とイデオロギー (1985年) (Culture critique books)』
- アンドルー・ゴードン『ミシンと日本の近代―― 消費者の創出』
- 病と健康のレトリック
- 佐藤守弘「医薬品――病気と健康のあいだに」(『開封・戦後日本の印刷広告: 『プレスアルト』同梱広告傑作選〈1949-1977〉』)
- 「欲求need」と「欲望desire」のちがい