講義
- 鏡・セルフィ・テレビ電話——ヴィデオ会議のなかの〈私〉
- 2020 オープン研究会② | home
- コミュニケーションと没場所性
- 没場所性に抗して | 本江正茂 ‹ Issue No.42 ‹ 『10+1』 DATABASE | テンプラスワン・データベース
- すべての情報技術の革新は、まず、コミュニケーションのコストを下げようとする。それが達成されてから、低いコストを保ったままで、コミュニケーションの強度を上げようとする。〔…〕情報技術でコミュニケーションのコストを削減しようとするときに、引き換えにされるのは、時間と空間の同期による濃密なコミュニケーションという「場所に根付いた企て」の特性にほかならない。利益は「場所」からえぐり取られている。削減されたかにみえるコストを支払っているのは「場所」なのである。
- エドワード・レルフ『場所の現象学―没場所性を越えて (ちくま学芸文庫)』
- ウィリアム・J・ミッチェル『e‐トピア―新しい都市創造の原理』
- 没場所性に抗して | 本江正茂 ‹ Issue No.42 ‹ 『10+1』 DATABASE | テンプラスワン・データベース
- テレビ電話の歴史
- https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_videotelephony:titile
- アイザック・アシモフと子供たちの「未来予想図」 WEBESSAYS サントリー文化財団
- The Fantastic and Troubled History of the Video Phone - Flashbak
- 飯田豊『テレビが見世物だったころ: 初期テレビジョンの考古学』
- 当時〔1930年代〕のテレビジョン電話は、双方向コミュニケーションを実現するメディアとしての「テレビ電話」とは、大きく異なるニュアンスをともなっていた。〔中略〕双方が対等な関係で会話を楽しむというよりは、一方が他方を眺めるという非対称な関係になっていることが分かる。まるで監視カメラのような「見る(見せる)/見られる」という不均衡なまなざしを媒介する技術として想定されていたようである。〔…〕十九世紀後半以降のSF的想像力の系譜と共鳴しながら、テレビジョン電話は社会に姿を現しつつあった。テレビジョンという希代の科学技術は、こうしてモダニズムとナショナリズム、そしてジェンダーやコロニアリズムなどをめぐる不均衡なまなざしをはらんでいったのである。
- 電話と親密性
- 吉見俊哉・若林幹夫・水越伸『メディアとしての電話』
- 電話は、眼差しを欠いた脱場所的な声のコミュニケーションを可能にしていくことにより、対面的な出会いとは構造的に異なる関係性の次元を構成していく。これは、同じ電気的な複製メディアのなかでも、電話に特異の次元である。複製メディアの理想が、ヴァーチャル・リアリティのような三次元的な映像を伴う現実の複製や、触覚や嗅覚的な情報をも含んだ現実の複製にあるのだとすれば、あまり質のよくない音声だけを複製する電話のようなメディアは、きわめて原始的な段階にあるのだということになるだろう。だが、そのような複製メディアとして〔の〕不完全さゆえに、電話は「声による触れあい」という特異な関係の場を二〇世紀の社会に生み出すことになった。それは、メディアが複製する「現実」が実際の世界に対して持つ差異や欠落をむしろ積極的な契機として、新しい社会的現実を作りだしてゆく一つの例として見ることができるだろう。
- 吉見俊哉・若林幹夫・水越伸『メディアとしての電話』
- ヴィデオ会議のなかの〈私〉
- ジョン・バージャー『イメージ―視覚とメディア (ちくま学芸文庫)』
- 『パリ、テキサス デジタルニューマスター版 [DVD]』
- セルフィと鏡
- 前川修『イメージのヴァナキュラー: 写真論講義 実例編』
- セルフィは一見すると、写真の不気味さや不安定さの源泉であった〔…〕「幻のもうひとり」〔写真には写り込まない撮影者〕というメタレベルをすっかりオブジェクトレベルに組み入れてしまい、幽霊のようなその不在の存在を祓ってしまったかに思える。〔…〕「幻のもうひとり」はどこへ行ったのか。それは端的にいなくなったと答えることもできる。しかし、「もうひとり」は、分割不可能な「ひとり」ではなく、むしろ細かに分割されたレイヤーとして、その重なりのあいだに拡散しているのではないか。
- 増田展大「接続する写真——記憶、自撮り、身振り」『インスタグラムと現代視覚文化論 レフ・マノヴィッチのカルチュラル・アナリティクスをめぐって』
- 『トゥルーマン・ショー (字幕版)』
- 前川修『イメージのヴァナキュラー: 写真論講義 実例編』