デザイン論特講 第14回

講義

レポート試験

  • レポート課題:任意の広告イメージを一点選び、その広告を精密に記述した上で、記号論や文化論など講義の内容に則して論述する。
    • 引用元、情報の出典、参考文献(書籍、ウェブなど)は、文末にリストの形で必ず明記すること(下記の字数に は含めない)
    • 書式:A4用紙横書き(ワープロを推奨)、明朝体 ホッチキスは左上
    • 字数:1200〜2000字
    • 取り上げたイメージを、必ずコピー(白黒でも可)、あるいは印刷してレポートに添付すること。
    • 提出場所:教務チーム前提出ボックスへ提出

デザイン論特講 第13回

講義

デザイン論特講 第12回

講義

  • 視線と権力
    • ジェンダーと視線
      • ティントレット《スザンナの水浴》
      • ストーリー:「美しい若妻スザンナが沐浴しているときに、長老二人が近寄り、言い寄った。しかし、スザンナは拒絶した。逆恨みした長老たちは、スザンナを姦通罪で訴え、スザンナは死刑になってしまいそうになる。そこで、預言者ダニエルは二人の長老を尋問し、矛盾を暴き、スザンナの無実が実証された。二人の長老は死刑となった」(旧約聖書ダニエル書外典より)。
      • 3つのまなざし
        1. スザンナを「覗き見」る長老たちのまなざし=見返されることのない「非対称」のまなざし
        2. 鏡を見るスザンナのまなざし=自らを見る:男性のまなざしを内面化したまなざし
        3. 絵を見る観者のまなざし=メタ・レヴェルのまなざし:ポルノグラフィ?
      • ジェンダー=社会的、文化的に定められた性差(男らしさ/女らしさなど):生物学的な性差(セックス)とは区別される。
        • 男性優位のジェンダー構成においては、男性は見る主体であり、女性は見られる対象となる。
        • 視線の主体である男性は、「見る」という行為によって女性という「他者」を性格づける。
        • 男性(主体)は、女性(他者)に付与したそれぞれの性格(受動的、露出、イメージ、感情、神秘、自然…)の反対語(能動的、窃視、言語、理性、好奇心、文化…)を自らに付与する。
        • 「主体」とは先験的に存在する物ではなく、「他者」との関係の網目のうちに構築される物である。
        • 「男は行動し、女は見られる。男は女を見る。女は見られている自分自身を見る。これは男女間の関係を決定するばかりでなく、女性の自分自身に対する関係をも決定してしまうだろう。彼女の中の観察者は男であった。そして被観察者は女であった。彼女は自分自身を対象に転化させる。それも視覚の対象にである。つまりそこで彼女は光景となる」(ジョン・バージャー『イメージ Ways of Seeing―視覚とメディア (パルコ・ピクチャーバックス)』)。
      • マネ《オランピア》の視線
    • オリエンタリズム」と視線
      • オリエンタリズム=ヨーロッパのオリエントに対する支配的言説の様式
      • オリエントは…ヨーロッパ人の心のもっとも奥深いところから繰り返したち現れる他者イメージでもあった。そのうえオリエントは、ヨーロッパ(つまり西洋)がみずからを、オリエントと対照をなすイメージ、観念、人格、経験を有するものとして規定するうえで役だった(E・サイードオリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)』)。
    • 「京都」への視線
    • 岩倉具視と「二つの首都」構想(1883年):東京と西京
    • 視線の内面化
      • パノプティコン=一望監視装置
        • ジェレミーベンサムが考案した監獄
        • 監視する:看守から見ると、窓から入る逆光によって、囚人たちの身体は個別性を喪った抽象的な影として浮かびあがる
        • 監視される:中央の監視塔は鎧戸になっている

芸術学特論(2) 第13回

講義

デザイン論特講 第11回

講義

芸術学特論(2) 第12回

講義

デザイン論特講 第10回

講義

芸術学特論(2) 第11回

講義

  • 写真と痕跡
    • アイコン=インデックス的記号としての写真――パース
      • アイコン的記号/インデックス的記号/シンボル的記号(C・S・パースによる記号の三分類)
        • インデックス的記号=対象物との物理的因果関係に基づく記号
      • 写真、特にスナップ写真は非常に有益である。というのは、それらが表意している対象にある点でまったくよく似ているということをわれわれが知っているからである。しかしこの類似性というのは、写真が一点一点物理的に自然と対応するよう強いられるという状況のもとで作られたという事実によるものである。そういう点で、それらは記号の第二のクラスつまり物理的結合による記号のクラスに属する。(チャールズ・サンダース・パース記号学 (パース著作集)』、内田種臣訳、勁草書房、1986)
      • アイコン→メタファー(隠喩)、インデックス→メトニミー(換喩)
      • 呪術の二類型
        • 類感呪術=「似たものは似たものを生み出す」
          • 「類似の法則」=アイコン的、メタファー的な関係
        • 感染呪術=「かつてお互いに接触していたものは、その後、物理的な接触を持たなくなったのちも、引き続きある距離を置きながら互いに作用しあう」
          • 接触の法則」=インデックス的、メトニミー的な関係
            • サー・ジョージ・ジェームズ・フレーザー『図説 金枝篇
    • 写真映像の存在論――バザン
      • 画家という人間の存在ゆえに、絵画には疑いがつきまとった。〔…〕絵画と比べた場合の写真の独創性は、その本質的な客観性にある。〔…〕対象となる事物とその表象のあいだに、もうひとつの物以外に何も介在しないという事態が初めて生じたのだ。外部世界のイメージは初めて、人間の創造的介入なしに、動かしがたいプロセスに従って自動的に得られるようになった。〔…〕写真は花や雪の結晶のような「自然」現象として私たちに働きかける。〔…〕写真は事物からその写しへと、実在性が譲り渡されることの恩恵に浴している。〔…〕ボケていたり、変形や変色が生じていたり、資料的価値がなかったりするかもしれないが、しかし写真はその生成過程からして、モデルの存在自体に根ざしている。写真とはモデルそのものなのだ。
      • 〔…〕デスマスクもまた、一種の自動的な再現技術ではあるからだ。その意味で写真は、光による刻印の技術とみなすことができただろう。(アンドレ・バザン映画とは何か(上) (岩波文庫)』)
    • 写真=「コードのないメッセージ」――バルト
      • 写真のメッセージの中身は何だろうか。写真は何を伝えるのだろうか。当然、光景そのもの、そのものずばりの現実である。〔……〕現実そのものから写真に写すにあたって、現実を単位に細分して、それを写真が読むべきものとして与える対象とは素材の異なる記号として再構成する必要はまったくない。このオブジェと映像の間に中継物、すなわちコードを設定する必要はまったくない。たしかに映像は現実のものではない。しかし少なくともその完璧なアナロゴン〔相似物〕であって、常識的に写真を構成するのはまさしくこの類似の完全性なのである。こうして写真映像の特殊な位置づけがでてくる。写真はコードのないメッセージであるという位置である。(ロラン・バルト「写真のメッセージ」『映像の修辞学 (ちくま学芸文庫)』、あるいは『第三の意味―映像と演劇と音楽と
    • 「それは=かつて=あった」
      • 「写真」が数かぎりなく再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである。〔……〕写真は、「ほら、これです、このとおりです!」と言うだけで、ほかのことは何も言わない。写真は哲学的に変換する(言葉にする)ことはできない。〔……〕「写真」は何か目の前にあるものを指さすのであって、そうした純粋に指呼的な言語活動の域を脱することができない。(10)
      • 私が《写真の指向対象》と呼ぶものは、ある映像またはある記号によって指し示されるものであるが、それは現実のものであってもなくてもよいというわけではなく、必ず現実のものでなければならない。それはカメラの前に置かれていたものであって、これがなければ写真は存在しないであろう。〔……〕絵画や言説における模倣とちがって、「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。〔……〕それゆえ、「写真」のノエマ現象学的な本質〕の名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」である。〔……〕それはかつてそこにあった、がしかし、ただちに引き離されてしまった。それは絶対に、異論の余地なく現前していた。がしかし、すでによそに移され相異している。
      • 写真とは文字どおり指向対象から発出したものである。そこに存在した現実の物体から、放射物が発せられ、それがいまここにいる私に触れにやって来るのだ。〔……〕私は、かつて存在したものがその直接的な放射物(その光)によって実際に触れた写真の表面に、こんどは私の視線が触れにいくのだと考えるとひどく嬉しくなる(あるいは暗い気持ちになる)〔……〕(ロラン・バルト明るい部屋―写真についての覚書』)
    • ロザリンド・クラウス――指標論
      • あらゆる写真は、光のもろもろの反映を感光紙の表面上に転写した物理的痕跡なのである。写真はそれ故、イコン〔アイコン〕つまり視覚的類似の一種であるが、対象に対し指標〔インデックス〕的関係を持っているのである。真のイコン〔アイコン〕との隔たりを写真が感じさせるのは、この完全に物理的な生成によってである。つまり、大抵の絵画の描写的再現=表象の中で作用している組織的配列とか象徴的な意味の介在といったプロセスの入り込む余地を与えない、もしくはそうしたプロセスを短絡させるように見える、全くの物理的生成によってである。(ロザリンド・クラウスオリジナリティと反復―ロザリンド・クラウス美術評論集』)
    • 痕跡の系譜
      • 絵画の起源神話
        • コリントスの都市シキュオンにおいて陶器を作っていたブタデスという人物がいた。その娘は、ある青年に恋をしていた。その青年が外国へ行こうとしていたとき、彼女はランプによって投げられた彼の顔の輪郭を壁の上に描いた。この素描を基にして、父ブタデスは、塑像を作った」(大プリニウス『博物誌』)。
      • 痕跡と影絵(シルエット)
        • 「私が観相学上の知識を多く得たのは、他の如何なる肖像画よりも、純然たる影絵の方からである。観相学は影絵以上に客観的真実性を裏づける確かな証拠を持たない。なぜなら、影絵は、自然から直接に型取りしたものであるから」(J・C・ラーファター『観相学断片』)。
        • 幕末の影絵:谷文晁と落合芳幾
          • 裏切る影絵:高松次郎「影のドローイング」

デザイン論特講 第9回

講義

芸術学特論(2) 第10回

  • 写真と痕跡
    • アイコン=インデックス的記号としての写真――パース
      • アイコン的記号/インデックス的記号/シンボル的記号(C・S・パースによる記号の三分類)
        • インデックス的記号=対象物との物理的因果関係に基づく記号
      • 写真、特にスナップ写真は非常に有益である。というのは、それらが表意している対象にある点でまったくよく似ているということをわれわれが知っているからである。しかしこの類似性というのは、写真が一点一点物理的に自然と対応するよう強いられるという状況のもとで作られたという事実によるものである。そういう点で、それらは記号の第二のクラスつまり物理的結合による記号のクラスに属する。(チャールズ・サンダース・パース記号学 (パース著作集)』、内田種臣訳、勁草書房、1986)
      • アイコン→メタファー(隠喩)、インデックス→メトニミー(換喩)
      • 呪術の二類型
        • 類感呪術=「似たものは似たものを生み出す」
          • 「類似の法則」=アイコン的、メタファー的な関係
        • 感染呪術=「かつてお互いに接触していたものは、その後、物理的な接触を持たなくなったのちも、引き続きある距離を置きながら互いに作用しあう」
          • 接触の法則」=インデックス的、メトニミー的な関係
            • サー・ジョージ・ジェームズ・フレーザー『図説 金枝篇
    • 写真イメージの存在論――バザン
      • そこ〔絵画〕に人間が介在するということが、画像の上に疑惑の影をいつまでも投じていた。〔……〕絵画と比べての写真の独自性は、その本質的な客観性にある。〔……〕最初の事物とその表現の間にもう一つの事物〔カメラないしはレンズ〕以外は何一つ介在しないというのは、これがはじめてのことだった。厳密な決定論に従えば、外部世界の像が人間の創造的干渉なしに自動的に形成されるというのは、これが初めてのことだった。〔……〕写真は、〔……〕《自然現象》としてわれわれに働きかけるのである。〔……〕写真は、事物からその再現物への実在性の移動によって利益を得ている。〔……〕写真の映像も、ピントが外れてぼやけたり、形が歪んだり、色が変化したり、資料的価値がなかったりすることがあるかもしれないが、その生まれてくる過程を考えれば、それはやはりモデルの本体から生じてきたものなのである。写真の映像は、モデルそのものなのである
      • デス・マスクの型取りもまた、再現の過程での一種の自動性を示している。この意味では、写真を、光という代理人による事物の型取りと見なすこともできるだろう。(アンドレ・バザン映画とは何か(上) (岩波文庫)』)
    • 写真=「コードのないメッセージ」――バルト
      • 写真のメッセージの中身は何だろうか。写真は何を伝えるのだろうか。当然、光景そのもの、そのものずばりの現実である。〔……〕現実そのものから写真に写すにあたって、現実を単位に細分して、それを写真が読むべきものとして与える対象とは素材の異なる記号として再構成する必要はまったくない。このオブジェと映像の間に中継物、すなわちコードを設定する必要はまったくない。たしかに映像は現実のものではない。しかし少なくともその完璧なアナロゴン〔相似物〕であって、常識的に写真を構成するのはまさしくこの類似の完全性なのである。こうして写真映像の特殊な位置づけがでてくる。写真はコードのないメッセージであるという位置である。(ロラン・バルト「写真のメッセージ」『映像の修辞学 (ちくま学芸文庫)』)
    • 「それは=かつて=あった」
      • 「写真」が数かぎりなく再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである。〔……〕写真は、「ほら、これです、このとおりです!」と言うだけで、ほかのことは何も言わない。写真は哲学的に変換する(言葉にする)ことはできない。〔……〕「写真」は何か目の前にあるものを指さすのであって、そうした純粋に指呼的な言語活動の域を脱することができない。(10)
      • 私が《写真の指向対象》と呼ぶものは、ある映像またはある記号によって指し示されるものであるが、それは現実のものであってもなくてもよいというわけではなく、必ず現実のものでなければならない。それはカメラの前に置かれていたものであって、これがなければ写真は存在しないであろう。〔……〕絵画や言説における模倣とちがって、「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。〔……〕それゆえ、「写真」のノエマ現象学的な本質〕の名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」である。〔……〕それはかつてそこにあった、がしかし、ただちに引き離されてしまった。それは絶対に、異論の余地なく現前していた。がしかし、すでによそに移され相異している。
      • 写真とは文字どおり指向対象から発出したものである。そこに存在した現実の物体から、放射物が発せられ、それがいまここにいる私に触れにやって来るのだ。〔……〕私は、かつて存在したものがその直接的な放射物(その光)によって実際に触れた写真の表面に、こんどは私の視線が触れにいくのだと考えるとひどく嬉しくなる(あるいは暗い気持ちになる)〔……〕(ロラン・バルト明るい部屋―写真についての覚書』)
    • ロザリンド・クラウス――指標論
      • あらゆる写真は、光のもろもろの反映を感光紙の表面上に転写した物理的痕跡なのである。写真はそれ故、イコン〔アイコン〕つまり視覚的類似の一種であるが、対象に対し指標〔インデックス〕的関係を持っているのである。真のイコン〔アイコン〕との隔たりを写真が感じさせるのは、この完全に物理的な生成によってである。つまり、大抵の絵画の描写的再現=表象の中で作用している組織的配列とか象徴的な意味の介在といったプロセスの入り込む余地を与えない、もしくはそうしたプロセスを短絡させるように見える、全くの物理的生成によってである。(ロザリンド・クラウスオリジナリティと反復―ロザリンド・クラウス美術評論集』)

芸術学特論(2) 第9回

講義

芸術学特論 第8回

講義

基礎演習 第6回

講義

引用について

デザイン論特講3 第4回

講義

芸術学特論(2) 第5回

講義


https://satow-morihiro.hatenablog.com/


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19年度前期芸術学A視覚文化論デザイン論特講1デザイン理論特講(大学院)/a> 講演、特別講義など

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