二日目
- 初日の振り返りと質問への回答
- 視覚的コミュニケーションのモデル:イメージの諸機能
- コミュニケーションとしての展示:信仰から商業まで
- 視線と権力:イメージはどのように人を動かすか?
- オンライン・ミーティングと視線(+コメント記述)
初日の振り返りと質問への回答
- マンガとオノマトペ
- 固定カメラとパン・ショット
- 「実写映画とアニメ映画、その他ジャンルが多彩にあると思うのですが、そこで使われている有名な手法や逆にマイナーだけどその場面を際立たせているといったものがあれば事例を挙げて紹介してほしい」
- 「サンフランシスコの映画の冒頭で用いられていたパンやティルトのショットにはどのような効果があってどのような表現をしたい時に使われることが多いのかを知りたい」
- 初期映画:リュミエール兄弟、1895年に世界ではじめての映画上映:- YouTube
- 編集のはじまり:ジョルジュ・メリエス「手品師」(1889):- YouTube
- 複数ショットと編集:ジョージ・アルバート・スミス「トンネルの中のキス」(1899):- YouTube
- 主観ショットのはじまり:スミス「おばあさんの虫眼鏡」(1900):- YouTube
- クロスカッティングの芽生え:「アメリカ消防士の生活」(1903):- YouTube
- 今だったらこう編集する:- YouTube
- パンの発明:エドウィン・S・ポーター『大列車強盗』(1903):- YouTube(08:30)
- 長回し:溝口健二『雨月物語』(1953):- YouTube (1:23:00)
- 映画と感情移入
- 「擬人化の手法は日本人がよく使うものだという認識があったのですが、最後のランプに感情移入するショットは私からみると完全に擬人化でした。ランプに視点があって感情があることを環境やカメラを使って表している手法に見え、完全に感情移入してしまいました。しかしあの作品がCMとして大賞を取ったということは、これはもしかして擬人化の手法を見慣れているか見慣れていないかでカンヌの人々と私のリテラシー能力が異なり、うまくコードが変換できないコミュニケーション失敗の一例なのでしょうか。それとも「感情移入したのなら……」と話しかけていることから別にランプに感情移入してしまうリテラシー能力は私にもカンヌで見ていた人々にもあったけれど、欧州の人々は切り替えが早くて物の取り換えも早いというだけなのでしょうか」
視覚的コミュニケーションのモデル:イメージの諸機能
- 佐藤守弘「眼視の力——コミュニケーションとしての商品展示」
- 文化と表象:モノの社会的人生
- 展示の意味作用
- クシシトフ・ポミアン『コレクション: 趣味と好奇心の歴史人類学』
- ロマン・ヤコブソン「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」(『ヤコブソン・セレクション (平凡社ライブラリー)』)
- 隠喩/メタファー(月見うどん)と換喩/メトニミー(きつねうどん)、そして提喩/シネクドキ(親子丼)
- →C・S・パースによる指示対象との関係に着目した記号の3クラス:アイコン(イコン)、インデックス、シンボル
- ロラン・バルト「記号学の原理」(『零度のエクリチュール』旧版)
- 展示の諸機能
- 指示的機能
- 主情的機能
- 動能的(働きかけ)機能
- 交話的機能→交感的機能
- メタ言語的機能→メタ展示的機能
- 詩的機能→触知的機能
- 岸文和による「イメージの諸機能」(岸、島本編『絵画のメディア学: アトリエからのメッセージ』)
コミュニケーションとしての展示:信仰から商業まで
- 展示の歴史
- 教会の聖遺物、献納品コレクション
- 日本の場合:開帳(居開帳、出開帳)
- 驚異の部屋(珍品陳列室)
- ジョン・ソーンのミュージアム Homepage | Sir John Soane's Museum
- 「世界という散文」=アレゴリーとしてのコレクション
- ミシェル・フーコー『言葉と物〈新装版〉: 人文科学の考古学』
- クシシトフ・ポミアン『コレクション: 趣味と好奇心の歴史人類学』
- 「世界という散文」=アレゴリーとしてのコレクション
- 博物学のまなざし
- 可視的なものに名を付ける
- 教会の聖遺物、献納品コレクション
視線と権力:イメージはどのように人を動かすか?
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- 観者を見つめるイメージ:はたらきかける「視線」
- ジェンダーと視線
- ティントレット《スザンナの水浴》
- ストーリー:「美しい若妻スザンナが沐浴しているときに、長老二人が近寄り、言い寄った。しかし、スザンナは拒絶した。逆恨みした長老たちは、スザンナを姦通罪で訴え、スザンナは死刑になってしまいそうになる。そこで、預言者ダニエルは二人の長老を尋問し、矛盾を暴き、スザンナの無実が実証された。二人の長老は死刑となった」(旧約聖書ダニエル書外典より)。
- 3つのまなざし
- スザンナを「覗き見」る長老たちのまなざし=見返されることのない「非対称」のまなざし
- 鏡を見るスザンナのまなざし=自らを見る:男性のまなざしを内面化したまなざし
- 絵を見る観者のまなざし=メタ・レヴェルのまなざし:ポルノグラフィ?
- ジェンダー=社会的、文化的に定められた性差(男らしさ/女らしさなど):生物学的な性差(セックス)とは区別される。
- 男性優位のジェンダー構成においては、男性は見る主体であり、女性は見られる対象となる。
- 視線の主体である男性は、「見る」という行為によって女性という「他者」を性格づける。
- 男性(主体)は、女性(他者)に付与したそれぞれの性格(受動的、露出、イメージ、感情、神秘、自然…)の反対語(能動的、窃視、言語、理性、好奇心、文化…)を自らに付与する。
- 「主体」とは先験的に存在する物ではなく、「他者」との関係の網目のうちに構築される物である。
- 「男は行動し、女は見られる。男は女を見る。女は見られている自分自身を見る。これは男女間の関係を決定するばかりでなく、女性の自分自身に対する関係をも決定してしまうだろう。彼女の中の観察者は男であった。そして被観察者は女であった。彼女は自分自身を対象に転化させる。それも視覚の対象にである。つまりそこで彼女は光景となる」(ジョン・バージャー『イメージ: 視覚とメディア (PARCO PICTURE BACKS)』)。
- マネ《オランピア》の視線
- 「オリエンタリズム」と視線
- オリエンタリズム=ヨーロッパのオリエントに対する支配的言説の様式
- オリエントは…ヨーロッパ人の心のもっとも奥深いところから繰り返したち現れる他者イメージでもあった。そのうえオリエントは、ヨーロッパ(つまり西洋)がみずからを、オリエントと対照をなすイメージ、観念、人格、経験を有するものとして規定するうえで役だった(E・サイード『オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)』)。
- 視線の内面化
- 『パリ、テキサス』と視線のゲーム
オンライン・ミーティングと視線
- ヴィデオ会議のなかの〈私〉
- 2020 オープン研究会② | home
- 「メディア変容と新型コロナウィルス」報告集
- コミュニケーションと没場所性
- 没場所性に抗して | 本江正茂 ‹ Issue No.42 ‹ 『10+1』 DATABASE | テンプラスワン・データベース
- すべての情報技術の革新は、まず、コミュニケーションのコストを下げようとする。それが達成されてから、低いコストを保ったままで、コミュニケーションの強度を上げようとする。〔…〕情報技術でコミュニケーションのコストを削減しようとするときに、引き換えにされるのは、時間と空間の同期による濃密なコミュニケーションという「場所に根付いた企て」の特性にほかならない。利益は「場所」からえぐり取られている。削減されたかにみえるコストを支払っているのは「場所」なのである。
- エドワード・レルフ『場所の現象学 (ちくま学芸文庫 レ 3-1)』
- ウィリアム・J・ミッチェル『e-トピア: 新しい都市創造の原理』
- 没場所性に抗して | 本江正茂 ‹ Issue No.42 ‹ 『10+1』 DATABASE | テンプラスワン・データベース
- テレビ電話の歴史
- The Fantastic and Troubled History of the Video Phone - Flashbak
- 飯田豊『テレビが見世物だったころ: 初期テレビジョンの考古学』
- 当時〔1930年代〕のテレビジョン電話は、双方向コミュニケーションを実現するメディアとしての「テレビ電話」とは、大きく異なるニュアンスをともなっていた。〔中略〕双方が対等な関係で会話を楽しむというよりは、一方が他方を眺めるという非対称な関係になっていることが分かる。まるで監視カメラのような「見る(見せる)/見られる」という不均衡なまなざしを媒介する技術として想定されていたようである。〔…〕十九世紀後半以降のSF的想像力の系譜と共鳴しながら、テレビジョン電話は社会に姿を現しつつあった。テレビジョンという希代の科学技術は、こうしてモダニズムとナショナリズム、そしてジェンダーやコロニアリズムなどをめぐる不均衡なまなざしをはらんでいったのである。
- 電話と親密性
- 吉見俊哉・若林幹夫・水越伸『メディアとしての電話』
- 電話は、眼差しを欠いた脱場所的な声のコミュニケーションを可能にしていくことにより、対面的な出会いとは構造的に異なる関係性の次元を構成していく。これは、同じ電気的な複製メディアのなかでも、電話に特異の次元である。複製メディアの理想が、ヴァーチャル・リアリティのような三次元的な映像を伴う現実の複製や、触覚や嗅覚的な情報をも含んだ現実の複製にあるのだとすれば、あまり質のよくない音声だけを複製する電話のようなメディアは、きわめて原始的な段階にあるのだということになるだろう。だが、そのような複製メディアとして〔の〕不完全さゆえに、電話は「声による触れあい」という特異な関係の場を二〇世紀の社会に生み出すことになった。それは、メディアが複製する「現実」が実際の世界に対して持つ差異や欠落をむしろ積極的な契機として、新しい社会的現実を作りだしてゆく一つの例として見ることができるだろう。
- 吉見俊哉・若林幹夫・水越伸『メディアとしての電話』
- ヴィデオ会議のなかの〈私〉
- ジョン・バージャー『イメ-ジ: 視覚とメディア (ちくま学芸文庫 ハ 23-2)』
- 『パリ、テキサス デジタルニューマスター版 [DVD]』
- セルフィと鏡
- 前川修『イメージのヴァナキュラー: 写真論講義 実例編』
- セルフィは一見すると、写真の不気味さや不安定さの源泉であった〔…〕「幻のもうひとり」〔写真には写り込まない撮影者〕というメタレベルをすっかりオブジェクトレベルに組み入れてしまい、幽霊のようなその不在の存在を祓ってしまったかに思える。〔…〕「幻のもうひとり」はどこへ行ったのか。それは端的にいなくなったと答えることもできる。しかし、「もうひとり」は、分割不可能な「ひとり」ではなく、むしろ細かに分割されたレイヤーとして、その重なりのあいだに拡散しているのではないか。
- 増田展大「接続する写真——記憶、自撮り、身振り」『インスタグラムと現代視覚文化論 レフ・マノヴィッチのカルチュラル・アナリティクスをめぐって』
- 『トゥルーマン・ショー (字幕版)』
- 前川修『イメージのヴァナキュラー: 写真論講義 実例編』