芸術学特論(1) 第11回

講義

  • 視線と権力
    • 観者を見つめるイメージ:はたらきかける「視線」
    • 選挙ポスターと視線
    • ジェンダーと視線
      • ティントレット《スザンナの水浴》
      • ストーリー:「美しい若妻スザンナが沐浴しているときに、長老二人が近寄り、言い寄った。しかし、スザンナは拒絶した。逆恨みした長老たちは、スザンナを姦通罪で訴え、スザンナは死刑になってしまいそうになる。そこで、預言者ダニエルは二人の長老を尋問し、矛盾を暴き、スザンナの無実が実証された。二人の長老は死刑となった」(旧約聖書ダニエル書外典より)。
      • 3つのまなざし
        1. スザンナを「覗き見」る長老たちのまなざし=見返されることのない「非対称」のまなざし
        2. 鏡を見るスザンナのまなざし=自らを見る:男性のまなざしを内面化したまなざし
        3. 絵を見る観者のまなざし=メタ・レヴェルのまなざし:ポルノグラフィ?
      • ジェンダー=社会的、文化的に定められた性差(男らしさ/女らしさなど):生物学的な性差(セックス)とは区別される。
        • 男性優位のジェンダー構成においては、男性は見る主体であり、女性は見られる対象となる。
        • 視線の主体である男性は、「見る」という行為によって女性という「他者」を性格づける。
        • 男性(主体)は、女性(他者)に付与したそれぞれの性格(受動的、露出、イメージ、感情、神秘、自然…)の反対語(能動的、窃視、言語、理性、好奇心、文化…)を自らに付与する。
        • 「主体」とは先験的に存在する物ではなく、「他者」との関係の網目のうちに構築される物である。
        • 「男は行動し、女は見られる。男は女を見る。女は見られている自分自身を見る。これは男女間の関係を決定するばかりでなく、女性の自分自身に対する関係をも決定してしまうだろう。彼女の中の観察者は男であった。そして被観察者は女であった。彼女は自分自身を対象に転化させる。それも視覚の対象にである。つまりそこで彼女は光景となる」(ジョン・バージャー『イメージ Ways of Seeing―視覚とメディア (パルコ・ピクチャーバックス)』)。
      • マネ《オランピア》の視線
    • オリエンタリズム」と視線
      • オリエンタリズム=ヨーロッパのオリエントに対する支配的言説の様式
      • オリエントは…ヨーロッパ人の心のもっとも奥深いところから繰り返したち現れる他者イメージでもあった。そのうえオリエントは、ヨーロッパ(つまり西洋)がみずからを、オリエントと対照をなすイメージ、観念、人格、経験を有するものとして規定するうえで役だった(E・サイードオリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)』)。
    • 「京都」への視線
    • 岩倉具視と「二つの首都」構想(1883年):東京と西京
    • 視線の内面化
      • パノプティコン=一望監視装置
        • ジェレミーベンサムが考案した監獄
        • 監視する:看守から見ると、窓から入る逆光によって、囚人たちの身体は個別性を喪った抽象的な影として浮かびあがる
        • 監視される:中央の監視塔は鎧戸になっている

芸術学概論(1) 第11回

講義

芸術学特論(1) 第10回

講義

芸術学概論(1)第10回

講義

  • イメージを「読む」
    • 物語とイメージ:『伊勢物語』と「八つ橋」
      • 尾形光琳の3つの八つ橋/かきつばた
        • C0001845 伊勢物語図 - 東京国立博物館 画像検索
        • https://www.metmuseum.org/art/collection/search/39664
        • 燕子花図|根津美術館
        • 昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、「京にはあらじ、東の方に住むべき国求めに」とて行きけり。もとより友とする人、一人二人して行きけり。道知れる人もなくて、惑ひ行きけり。
        • 三河の国八橋といふ所に至りぬ。そこを八橋と言ひけるは、水ゆく川の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋と言ひける。その沢のほとりの木の陰に下り居て、乾飯食ひけり。その沢にかきつばた いとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばた、といふ五文字を上の句に据ゑて、旅の心を詠め」と言ひければ、詠める。
          • 唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ(各句の頭の字をとれば「か・き・つ・ば・た」)
        • と詠めりければ、みな人、乾飯の上に涙落としてほとびにけり。

芸術学特論(1) 第9回

講義

芸術学概論(1)第9回

講義

芸術学特論(1) 第8回

講義

  • 広告という視覚文化
    • 「欲求need」と「欲望desire」のちがい
      • 「欲求は満足することができる。でも欲望は、決して満足しない。そして人間の活動は、そのほとんどがこうした「満たされない欲望」のうえに成立している。僕たちは自分の抱えた欲望を、そのつどちょっとずつ満たしてやることで、最終解決は先送りしながら生きている。〔…〕実はこういう欲望のメカニズムは、「資本主義」システムのそれとよく似ている。いろんな問題解決を常に先送りしながら成立しているこのシステムは、その究極的な解消がありえないことが、システム成立のための重要なよりどころになっている」
      • 「いわゆる資本主義とは、交換過程の偶発的性格(交換の可能性がその場その場の個人的な欲求に依存すること)を克服するために、支払うものの欲求を身体的・生理的な領域から解放し、交換の動機付けとなる欲求〔=欲望?〕を自己創出する動的システムのことなのだ。〔…〕資本システムは広告という意味媒体によって差異を自己生産し、私たちの欲求を創出する」
    • イメージのメディア的機能
      1. 【世界/コンテクスト】指示的機能
      2. 【制作者】表出的機能
      3. 【受容者】能動的機能(→広告)
      4. 【約束事/コード】メタ絵画的機能
      5. 【イメージ】美的機能
    • 広告=受容者の未来の行動を指示するイメージ
      • 「広告の目的は、見る者の現実の生活に対して最大限の不満を抱かせようとするものである。その社会の生活様式への不満ではなく、自分自身の生活への不満である。この商品を買えばあなたの生活はより良くなると広告は提案する。広告は見る者により良い状態にあるもう一つの彼を示す」。
      • 「あらゆる広告は不安をかきたてる。すべてのことはお金に集約され、お金を手に入れることがその不安を克服することである。いいかえれば広告がかりたてる不安とは、何も持たなければ、自分自身も何者でもなくなってしまうという不安である」。
      • その定義からいって広告にとって現在は不十分なものである。〔……〕束の間の生命しかない広告イメージは未来形しか用いない。これを買えば、あなたは魅力的になるだろう。こうした環境で暮らせば、あなたの人間関係はすべて快調で輝かしいものになるだろう。〔……〕広告は未来形で語る。しかしその未来への到達は限りなく先へ延ばされる。それではどのようにして広告は、その広範な影響を及ぼす説得力を保つのだろうか。広告が説得力を失わないのは、広告の真実性が、その広告の約束することが本当に実現されるかによって判断されるのではなく、〈見る者=購買者〉に与える幻想がどれだけ有効性を持つかによって判断されるからである。広告は本質的に、現実とではなく白昼夢と結びつく」。
    • 戦後日本のポスターにおける医薬品の広告
      • 佐藤守弘「医薬品——病気と健康のあいだに」

演習I(1)-1 第8回

芸術学概論(1)第8回

講義

芸術学特論(1) 第7回

講義

  • ロラン・バルトと文化記号学
    • 神話学:外示(デノテーション)と共示(コノテーション):もとはルイ・イェルムスレウの考え
      • ロラン・バルト現代社会の神話―1957 (ロラン・バルト著作集 3)
        • 「私は理髪店にいて『パリ・マッチ』誌を一冊、手渡される。その表紙には、フランスの軍服を着た一人の若いニグロが、軍隊式の敬礼をして目を上げているが、おそらくその見つめる先には、三色旗がひるがえっているのだろう。こうしたことが映像の意味である。だが、純粋であろうがなかろうが、わたしにはその映像が私にとって何を意味しているかがよくわかる。すなわち、フランスは偉大な〈帝国〉であること、そのすべての息子らは、肌の色の区別なく、その旗に忠実に仕えるということ、いわゆる抑圧者に仕えるこの黒人の熱意ほど、いわゆる植民地主義を非難する人たちに対する最良の応答はないということ。それゆえ、わたしはここでもまた、価値の高められた記号体系を目の前にしていることになる。すでに、前提となる体系(「フランス軍隊風の敬礼をする黒人兵士」)から、それ自体形成されたシニフィアンがある。それからシニフィエがある(ここではそれは、フランス性と軍隊性の意図的な混合である)。そして最後に、シニフィアンをつうじての、シニフィエの現前がある(バルト前掲書)」。
        • 二重の記号体系:「薔薇」という記号は、「bara」という音(シニフィアン)と「茎に棘があって、複雑な花弁を持つ植物」という概念(シニフィエ)から成り立つが、その「薔薇」という(喋られた/書かれた)記号自体がシニフィアンとなって、たとえば「情熱」というメタ・レヴェルでのシニフィエを指す場合。
      • 同「広告のメッセージ」『記号学の冒険
        • 「アストラで黄金の料理を」という広告の場合:共示が外示を隠蔽する
      • 同「映像の修辞学」『第三の意味―映像と演劇と音楽と』:パンザーニ社の広告の分析
  • 広告という視覚文化
    • 「欲求need」と「欲望desire」のちがい
      • 「欲求は満足することができる。でも欲望は、決して満足しない。そして人間の活動は、そのほとんどがこうした「満たされない欲望」のうえに成立している。僕たちは自分の抱えた欲望を、そのつどちょっとずつ満たしてやることで、最終解決は先送りしながら生きている。〔…〕実はこういう欲望のメカニズムは、「資本主義」システムのそれとよく似ている。いろんな問題解決を常に先送りしながら成立しているこのシステムは、その究極的な解消がありえないことが、システム成立のための重要なよりどころになっている」
      • 「いわゆる資本主義とは、交換過程の偶発的性格(交換の可能性がその場その場の個人的な欲求に依存すること)を克服するために、支払うものの欲求を身体的・生理的な領域から解放し、交換の動機付けとなる欲求〔=欲望?〕を自己創出する動的システムのことなのだ。〔…〕資本システムは広告という意味媒体によって差異を自己生産し、私たちの欲求を創出する」

芸術学概論(1) 第7回

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芸術学特論(1) 第6回

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  • 文化と記号
    • 同一の文化に属する者たちは、一連の概念、イメージ、思想——それによって、世界について考えたり感じたりすることができ、したがって世界をおおまかにおなじように解釈することができる——を共有しているはずである。おおまかに言えば、同じ「文化的なコードcode」を共有しているはずである。こうした意味においては、考えることや感じることは、それ自身「表象のシステム」である——そのシステムによって、私たちの精神生活の中で、私たちの持つ概念、イメージ、感情が、「向こうの」世界に存在する、あるいは存在するかもしれないモノを「表すstand for」、あるいは表象するのである。同じように、他人にそれらの意味を伝達 communicateするため、何らかの意味の交換に参加する者は、同じ言語的コードを使えなければならない——広い意味で「同じ言葉を話す」ことができなければならないのである。これは、文字通り、参加者たちが全員、ドイツ語なりフランス語なり中国語なりを話すという意味ではない。また、同じ言葉を話す者の言うことを完璧に理解するという意味でもない。ここでいう「言語」とは、もっと広い意味である。私たちの〔コミュニケーションの〕パートナーは、「あなた」が言うことを「私」が理解していることに翻訳できる——逆もまた同じ——程度に同じ言語を話せればいいのである。また、視覚的なイメージもおおまかに同じ仕方で読めなければならない。どちらもが「音楽」であると認識するものを作るためには、おおまかに同じように音を組み立てる方法を知らなければならない。全員ボディ・ランゲージや表情を、おおまかに同じように解釈しなければならない。そして、自身の感情や考えを、そうしたさまざまな言語に翻訳する方法を知らなければならない。意味とは対話である——つねに部分的にだけ理解され、つねに不均等な交換なのである。
    • ではなぜ、意味を生成し、伝達するさまざまな手段を「言語」や「言語のようにはたらく」と呼ぶのであろうか。どのように言語ははたらくのであろうか。単純な答えをいえば、言語は、表象を通して機能するのである。それらは「表象のシステム」である。本質的に、上記の実践が全て「言語のように機能」するのは、それらが全て書かれたり話されたりするからではなく(〔実際のところ〕違う)、それらが全て同じ要素を、私たちが言いたいこと、考えや概念や感情を表現したり伝達したりしたいことを表したり、表象したりするために使っているからなのである。音声言語は音を使い、書記言語は言葉を使い、音楽的言語は音階上の楽音を使い、「身体の言語」は肉体的なジェスチャーを使い、ファッション産業は衣料品を使い、表情の言語は、人の顔の要素を変える方法を使い、テレビはデジタル的、電子的に作られたスクリーン上のドットを使い、交通信号は、赤、青、黄を使って、「何かを言う」。これらの要素——音、言葉、楽音、ジェスチャー、表情、衣料——は、私たちの〔住む〕自然で物質的な世界の部分である。しかし、それらが言語にとって重要なのは、それらが何であるかではなくて、何をするのか——すなわちそれらの機能——ということである。それらは、意味を構築し、送達する。それらは意味を生成する。それらはそれら自身のうちには、何ら意味を保持していない。そうではなく、それらは象徴symbolとして作用するがゆえに、意味を運ぶ乗り物あるいはメディアなのである。象徴というのも、すなわちそれらは、私たちが伝達したいと思っている意味を表す、あるいは表象する(つまり象徴化する)のである。もう一つの隠喩を使うならば、それらは、記号として機能する。記号は、私たちの概念、考え、感情を、他者が読み、解読〔脱コード化〕し、解釈することができるような仕方で、表す、あるいは表象するのである。

芸術学概論(1)第6回

講義

芸術学特論(1) 第5回


MODS & KAISER CHEIFS LONDON CLOSING CEREMONY 2012

芸術学概論(1) 第5回


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19年度前期芸術学A視覚文化論デザイン論特講1デザイン理論特講(大学院)/a> 講演、特別講義など

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